5枚の大きな写真が2011年3月15日、朝日新聞朝刊に載った。1ページの紙面の半分以上を占めた連続写真を撮影したのが、宮城県南三陸町で整体院を営んでいた高橋勲さん(88)だった。
その4日前、港近くにあった院内で施術を行っている最中、経験したことのない激しい揺れに襲われた。数年前に新築したばかりだったとはいえ、建物が崩れないか恐怖を覚えた。「大丈夫だ。大丈夫だ」と叫びながら、一緒に働いていた妻の春子さん(当時73)に覆いかぶさって守った。
揺れが収まるとすぐ、「地震の後には津波が来る」という言い伝えが頭をよぎった。高橋さんが生まれる3年前の1933(昭和8)年、3千人を超す死者・行方不明者を出した昭和三陸地震があった。
「けえれっ」。数人いた来院客を帰宅させ、200メートルほど離れた高台にある自宅へ妻と避難した。標高は10メートル近く。「ここまで逃げれば大丈夫だろう」と考えた。
小さなデジタルカメラを握りしめ、整体院を見下ろせる場所へ移動した。「津波が来たらせめて写真でも撮って別れっぺ」と考えた。
そこへ想像を超える巨大な津波が押し寄せた。
濁流にもまれる自動車や船。あっという間に崩れ落ちる家屋。肩を借りながら、高台へと避難する高齢者。
なすすべなく、ただひたすらに13分間、シャッターを切り続けた。
気がつくと、足元まで海水が迫っていた。「撮影なんかしている場合じゃない」。裏手の山を無我夢中で登った。
津波が引いたあと眼前に広がったのは、全てが破壊された町。整体院は跡形もなく、高台の自宅にも車数台が突き刺さっていた。「全部無くなった」。がくぜんとするしかなかった。
2日後、取材に現れた朝日新聞記者が高橋さんのカメラに気づいた。メモリーカードに残っていた津波の写真46枚を記者に託し、そのうちの5枚が15日の朝刊に載った。
- 「撮ってよかったのか」妻が携帯に残した大津波、伝える使命と葛藤と
避難先の町内の体育館で、記…