中島京子 お茶うけに

中島京子 お茶うけに

 「小さいおうち」で直木賞、「やさしい猫」で吉川英治文学賞などを受賞した小説家の中島京子さんが、日々の暮らしのなかで感じるさまざまなことをつづる連載エッセーです。

 庭のジャガイモを収穫した。

 植えた記憶のない場所から勝手に生えてくれて、まったく世話もしなかったのに、3株、合計12個のイモが獲(と)れた。150グラム大のものが6個。そのほかはピンポン球くらいのものから大福くらいの大きさまでいろいろだ。

 まずはフライドポテトにしてホクホク感を楽しみ、これからどうやって食べようか思案中なのだが、庭で作るイモというと、戦時中とか戦後の混乱期の、「代用食」みたいなものが頭に浮かんでしまうのは、終戦記念日が近いせいか。今年は戦後80年だし。

 もちろん、わたし自身は戦後生まれで、戦中戦後すぐの食糧難の経験はなく、上の世代が顔をしかめて回想する「脱脂粉乳とコッペパンの給食」すら体験していないけれど、「飢え」の話は、戦争体験者だった大人たちからよく聞いたものだった。

 「イモとカボチャは戦時中を思い出すから食べたくない」と言ったりするおじさんなども1人や2人ではなかったし、92歳の母はいまも時々「『何がなんでもカボチャを作れ』という標語が、『撃ちてしやまん』の隣に貼ってあったのよ」と言って苦笑する。

画・谷山彩子

 米が全国的に配給制になったのは昭和17(1942)年だが、「イモ」は、さらに状況が逼迫(ひっぱく)してくると、がぜん重要度が増したらしい。

 手元にある『昭和・平成家庭史年表 1926→1995』(河出書房新社)というものを見ているのだが、「サツマイモは大切な主食」という標語のもと、大増産運動が始まったのは昭和18(43)年7月のことだそうだ。この年、九州・宮崎駅には、ごはんが一切入っていない「イモ駅弁」が登場する。昭和20(45)年1月には「イモ類増産対策要綱」を閣議決定。「戦時下の食糧と、軍用液体燃料の生産原料確保のため、特攻魂でサツマイモなどの2倍増産を目指す」とされた。

 特攻魂で!

 8月に戦争は終わるわけだが…

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