米軍がサイパン島への上陸を開始した翌日の1944年6月16日、侵攻した海岸に残された上陸作戦用の水陸両用車両=米海軍歴史遺産司令部のホームページから
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 7月7日は、太平洋戦争さなかの80年前、サイパン島の日本守備隊が最後の組織的な総攻撃を行った日です。守備隊のほとんどが戦死し、島にいた民間人の半数近くが亡くなりました。最北端に追い詰められた兵士や民間人が多数身を投げたマッピ岬は「バンザイクリフ」と呼ばれました。防衛省防衛研究所戦史研究センターの齋藤達志2等陸佐は、悲劇の背景に日本軍の準備不足や誤算、民間人を戦闘に巻き込む当時の考え方など様々な要因があったと指摘します。

 ――サイパン島は1943年9月30日、日本が御前会議で決定した「今後採るべき戦争指導の大綱」(第2回)で「絶対国防圏」に含まれていました。

 確かに日本政府と軍は、日本が戦争を完遂するために絶対に確保すべき要域として絶対国防圏を定めていました。しかし、サイパンを含む中部太平洋を守備する陸軍第31軍が編成されたのは44年2月、海軍の中部太平洋艦隊に至っては同年3月でした。

■日本軍主力のサイパン到着 …

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