「生きて、繋いで―被爆三世の家族写真―」より=2018年1月、広島市東区、堂畝紘子さん撮影

 原爆投下から80年を前に、日本被団協のノーベル平和賞受賞が決まった。被爆2世の家族写真、被爆遺物、戦後10年の街並み……被爆地「ヒロシマ」にシャッターを切ってきた数多くの写真家たちは、そこにどんな思いを込めてきたのか。

「幼稚な理由」が恥ずかしかった 堂畝紘子さん(42)

堂畝紘子さん=広島市中区、上田潤撮影

 全国で撮った被爆者の家族は100組を下らない。あるときは被爆者本人をにぎやかに囲む大家族を、あるときはたった一人で遺影とともに並ぶ姿を写してきた。

 9年前、初めて個展を開き、7組の家族写真を展示した。その後、見にきた人がネットに「他人の家族写真を見せられて『平和を考えろ』とか、ばかげてる」と書き込んでいるのを見つけた。

 「確かに、これで何を感じろというのか」。写真家の堂畝(どううね)紘子さん(42)は考え込んだ。なぜ被爆者家族を撮るのか。その頃は自分でも理由がよくわかっていなかった。

 広島市で生まれ育った。高校時代に8月6日の平和記念式典にボランティアとして参加した。式後に平和記念資料館に入ると、展示を食い入るように見つめる人らがいた。「自分の存在意義がほしいという幼稚な理由」で来ていた自分が恥ずかしくなった。戦争とは、平和とは。「もっと知らなければ」

 高校を卒業後、平和問題を伝えるテレビ番組をつくる夢を胸に上京した。しかし、就職した番組制作会社の上司からは「50年早い」と言われた。挫折して広島に戻った。

 故郷で何をして生きていけばよいのか。迷い抜く中で、こんな思いがわきあがった。

 「広島に戻ったからにはもう二度と、『平和』から目を背けたくない」

堂畝さんが被爆者の家族を撮るようになった理由の一つに、東京の写真店で働いていたころの、ある記憶がありました。後半は、個性豊かな写真家3人の物語が続きます。

 広島に戻った堂畝紘子さん(…

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