東側(後方)から見た崩壊した浦上天主堂=1945年8月、長崎市本尾町、松本栄一撮影

 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞決定から一夜明けた12日、代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(92)らが記者会見に臨んだ。田中さんは創生期から70年近く活動を続ける。「モチベーションは私の体験ですね」。人生と共にある被爆者運動の歴史に、思いをはせた。

 1945年8月9日。中学1年生だった。長崎市の自宅2階で寝転がりながら、本を読んでいた時。外から爆音が聞こえ、窓から体を乗り出した。だが、爆撃機は見えない。

 顔を引っ込めた瞬間、真っ白な空気のような光に包まれたと感じた。1階に下り、両手で目と耳を押さえて突っ伏した。爆風で気を失い、母の声で意識を取り戻した。

 5歳で父を亡くし、経済的に頼りにしていた親族5人は、爆心地近くで死んだ。

 「何もない」と感じるほど、一面焼け野原となっていた。炭のように真っ黒の遺体、風船のように膨らんだ遺体……。数え切れないほどの人たちが息絶えている。伯母の遺体を焼き、骨を拾った光景が頭に残った。

「あの爆弾をたくさんつくろうとしているのか」

 2発の原爆で、45年末まで…

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