できないことを考えるより、やりたいことを見つけて、どうすればできるかを考えてほしい。できることは、きっとたくさんある。聞こえなくても、うまく話せなくても――。
自らも聴覚に障害のある教諭たちは、そんな思いで聾(ろう)学校の教壇に立っている。
「できる子」でいたかった
社会科の尾田将史教諭(43)は鳥取県岩美町で生まれた。1歳半ごろ、テレビを見ている時に祖父母に名前を呼ばれたが、反応しなかった。「何度呼ばれても、ぜんぜん振り向かない。それで家族は、私が聞こえないんじゃないかと気づいたそうです」
幼い頃、手話は言語ではなく手まねだと思っていた。箱形の補聴器は目立つので学校の外ではつけなかった。「両親は聾学校の世界だけでなく、聞こえる同級生と交流する機会を持ってほしいと思っていたようです」。鳥取県立鳥取聾学校(鳥取市)に行きながら、毎週土曜は地域の小学校へ交流学習に通った。
両親の期待にこたえて「できる子」でいたい。中学生になっても交流学習を続けたが、相手の話が分からない。葛藤で心が荒れ、先生に暴言を吐き、八つ当たりもした。
「地域の高校に行っても、自分も相手も互いに話が分からないだろう」と、聾学校の高等部に進んだ。写真部の活動に打ち込むと、それが校外でも評価された。自分に自信が持て、「手話がなくても大丈夫だと思った。『聞こえる社会』に適応できると考えていた」。
手話使って堂々と生きる
担任に勧められて四国の大学…