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Re:Ron連載「技術で世界を知覚する 岡田麻沙のテック・デザイン対談」第1回

 この連載は、インターネット番組「ポリタスTV」でMCをつとめるライターの岡田麻沙さんが、自身の担当した対談企画をもとに記事を執筆しています。UXライターとしてデジタルプロダクトにも関わる岡田さんが、「デザイン×テクノロジー」をテーマにゲストと対話を深めます。

 「デザインと人権」や「テクノロジーと政治」について、真面目に、安全に、みんなで考えていく場所が必要だ。デザインやテクノロジーをめぐる言説には、「便利になるためには多少の犠牲はやむを得ない」「アップデートについていけない人間は怠慢」といった新自由主義的な価値観を内包しているものも少なくない。一方で、たとえば行政のデジタルトランスフォーメーションに伴って表出する監視社会への不安のように、社会課題に強い関心を抱く人々がテクノロジーを忌避する構図もまた、珍しいものとはいえない。間があるといい。技術は、言葉で解けない問いに、別の角度から光を当て、開いていく力を持っている。本連載では、デザインやテクノロジーに携わる人々の話を聞き、社会課題における「別の問い方」を探る。

 第1回は、人類学者・中村寛さんに話をうかがい、デザインと人類学の共通点について考える。

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ポリタスTVで対談する岡田麻沙さん(左)と人類学者の中村寛さん=ポリタスTV提供

「反暴力」でも「非暴力」でもなく

 【岡田麻沙】 まず、今回のテーマについて解題をさせてください。「デザイン」というと、専門家だけに任された領域というイメージを持つ人もいるかもしれません。しかし実際には、むしろ多様な人々がその工程に関わっていくほうが、デザインされたものの広さや強度を担保できる場合がある。そのことが、中村さんの取り組んでいるデザイン人類学を通してなら、よく見えるのではないかと考えています。

 さらに、中村さんの研究テーマでもある「脱暴力」は、私たちがデザインなるものを通して手に入れたい状態そのものなのではないか。

 私は最近、社会課題について声をあげるのが非常に難しいと感じています。「傷のない正義」を見つけることができない。あるイデオロギーについて「反対である」と表明することが、別の誰かの足を踏んでしまうという状況がいや応なくあり、真面目な人ほど、すべてを達成しようと苦しんでしまう。極端ないい方をするならば、「反差別」というスタンスすら、素朴に表明できないと感じることがあります。こうした問題について、デザインを介在させることで違う景色が見えてくるのではないかと考えています。その際のゴールとしては、「反暴力」でも「非暴力」でもなく、「脱暴力」がちょうどいい。

 【中村寛】 ありがとうございます。私は普段、多摩美術大学のリベラルアーツセンターで人類学を担当しています。そこはおもに教養科目群が置かれた場所で、すべての学科を横断的に見ることができる。2008年に赴任して以来ずっと、学生や先生たちと「人類学と美術は、どのように結び合い、関係するのだろうか」と、会話やワークショップを通じて議論してきました。アートとの関係はどうか? デザインとの関係は? というような問いを試行錯誤して、今に至っています。

 一方で、人類学の研究テーマとしては、暴力という非常に大きな問題に取り組んできました。20世紀から21世紀にかけて、日本語の「暴力」や英語の“violence”という言葉がどのようにイメージされてきたかといえば、多くの場合は肉体的な暴力であったわけです。あるいは、目の前で起きるわかりやすい暴力――戦場での攻撃や、ミサイルが飛んでくる光景、路上で誰かが人を刺してしまった場面など――を人々は思い浮かべる。もちろん、それらも暴力の範疇(はんちゅう)に入るけれども、実は、より致命的で致死的で、しかし見えにくい暴力が、私の取り扱う領域にあって。それはニューヨークのハーレムに暮らすアフリカン・アメリカンの人々や、それ以外のアフリカ系移民の人々と時間を過ごすかたちでフィールドワークをしながら探り当てていった、ひとつの大きな問題群でした。

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ニューヨーク・ハーレム地区のメインストリート=中村寛さん提供

 つまり、フィジカルな暴力に限定されず、むしろその奥にある社会制度や文化的な慣習、あるいは言葉遣いなど、「象徴暴力」や「構造的暴力」と呼ばれるものが、私の研究テーマでした。

 ただ、研究を続けているとフラストレーションがたまるんです。論文やエスノグラフィー、寄稿文と、さまざまなものを執筆する機会があるのですが、先行研究を調べ、同時代に出来上がっていく論文を見ていると、暴力に関する精緻(せいち)な分析は、もう、山ほどあることがわかる。もちろん、これらの成果がアップデートされていくことも非常に重要だとは思います。

 しかし、暴力のメカニズムはある程度明るみに出てきているわけです。人々が暴力を見過ごしてしまう傾向があることもわかってきており、人間集団に本質的に備わっている暴力的な特性も明らかになっている。私たちが社会集団のなかで暮らしていく限りにおいては、どうしても暴力とは無縁になることができない。だから我々は生きている限り暴力を振るい続けることになるし、暴力的な制度のなかで生きることになる。

 そのことをいつまでも論じたり分析したりしていても、解消には向かいません。むしろ、引き受けなければならない問題は、その先にある。アカデミックな世界にいる研究者たちも、一歩先に進んで、精緻な分析をアップデートしながら、同時に、社会的な実装をしたり、問題解決に最後まで伴走することが必要なのではないか。

 そんなことを、この6、7年ほど、ずっと考えてきたのですが、若く情熱のあるデザイナーたちと会話をしていくなかで、いろいろな問題解決の仕方を社会実装していくことができるのではと思うようになりました。我々は生きているので、暴力をゼロにすることはできないけれど、それをよりましな形にしていくとか、縮減するような形で……できればフィジカルな傷が発生しないような、社会設計や社会制度が実現できるんじゃないだろうか、と。そうして立ち上げたのがアトリエ・アンソロポロジー合同会社(Atelier Anthropology LLC.)で、「人類学で世界をもっと優雅に」をミッションとしてうたいつつ、暴力の縮減を裏のミッションとしています。

 大きなゴールとしては、なるべくましな社会にしていくこと。社会制度のなかに含まれてしまっている暴力を減らしていくことを目指しています。

 【岡田】 共著である『芸術の授業―BEHIND CREATIVITY』でも書かれていましたよね。社会制度のなかに含まれている暴力とデザインが結びついたとき、非常に洗練された、私たちが見えないような形での暴力が立ち上がり、進行していく、と。

 【中村】 私たちはやはり…

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