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履正社高校女子野球部監督の橘田恵さん(中央下)と選手たち=2025年6月13日午後5時10分、大阪府箕面市、田辺拓也撮影
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 プレーの場を求めて海を渡り、後に日本代表監督として世界一になった。今春の全国高校女子硬式野球選抜大会で準優勝した大阪・履正社の橘田恵監督(42)は、女子野球界をリードしてきた一人だ。不遇な環境下でも、歩みを止めなかった情熱はどこから生まれたのか。指導者になった今、どんな思いを抱くのか。

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 ――6歳で野球を始めました。

 自然な流れでした。当時は地元近くの神戸市に女子の軟式野球チームがあり、三つ上の姉が入っていました。お菓子をもらっていて、いいなと思ったのが最初です。

 ――中学はソフトボール部。兵庫・小野高では男子の硬式野球部に入りました。

 小野高は当時、女子マネジャーも募集していなかった。ルール上、女子部員は公式戦に出られません。ボールが当たると危ないという理由もあって入部できないと分かると、父が学校に直談判したんです。「3日もすればついていけなくなるだろうから、一度やらせてあげてほしい」と。

 父は家庭の事情で高校途中で野球をやめていた。後に「娘には最後まで野球を頑張ってほしい」という思いを知り、心の支えにしていました。

 ――当時、女子が野球をする環境は整っていなかった。

 先生方は初の女子部員に戸惑いながらも、いろんな配慮をしてくださっていたと感じます。けがのリスクがある以上、高校は「練習生」のままでした。内野手の私は、壁当てが中心の毎日。正直、つらかった。ベンチに入れない選手の気持ちも分かるつもりです。

 転機は高校1年の夏。1998年7月8日の朝日新聞夕刊1面に、米国で女子プロ野球が開幕し、日本選手2人が参加するという話が載っていました。「これだ!」と目標が見つかりました。中学硬式「神戸ドラゴンズ」の練習にも参加し、栗山巧選手(西武)、坂口智隆さん(元オリックスなど)ら後のプロ選手と野球ができたことは大きかった。

 ――大学生の終盤は豪州で2季プレーし、最優秀選手に選ばれました。

 仙台大で男子にまざって新人戦1試合に出場しました。女子日本代表の選考には落ちました。それならばと4年生で豪州女子リーグに挑戦しました。

 豪州では多くの選手に試合に出るチャンスが与えられます。選手は受け身でなく、監督とも親しく会話する。後に指導者としての姿勢に影響しました。

 ――選手を離れるきっかけは。

 帰国後、埼玉・花咲徳栄高のコーチをしながらクラブチームで試合に出ることもあったのですが、選手としてやることをやっていないと喜びや悔しさが湧いてこなかった。その瞬間が区切りになりました。

 はじめは威厳のある指導者が良い指導者と思い、厳しくやっていました。ただ、「カーブが来るから打て」と言えても、打ち方の感覚を教えられなかった。大学院に進み、コーチングを学びました。

 ――履正社高で2014年の創部から監督を務め、17年に選抜大会優勝。18年W杯で日本代表監督として世界一になりました。

 5人の高校生から始まり、チームができあがっていく姿を見て、「すごい時代が来たな」と思いました。たらふく、おなかいっぱいに野球をやらせてあげたい思いです。

 ぜひ試合を見ていただきたいのですが、女子野球の魅力は「やらされていない」ことだと思います。ここで野球をしたいという子たちと一緒に階段を上がり、頂点をめざす。その過程が大事で、社会でも生きる力を身につけられる。今なれる最高の自分になろう、その準備をしようと指導しています。

 ――指導していて感じることは。

 もっと失敗すればいい。

 今の学生は失敗してはいけない文化のなかで育っている。でも、失敗から学び、自分が変われることもある。私なんて高校でずっと壁当てだったし、失敗しかしていないですよ。ずっと落ち込んで恐れるのではなくて、失敗を有効活用して前に進んでほしい。

 ――21年から全国選手権の決勝が阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で開かれています。

 17、19年に準優勝2回で、まだ甲子園に立てていません。学校と甲子園の距離は近いですが、遠いですね。甲子園に立てたらうれしいと思いますが、それで人生が変わるものではないでしょうね。

 私が一番うれしいのは、多くの卒業生が選手や指導者として野球に関わり続けていること。卒業生が野球の楽しさを伝え、また新しい部員がやってくる。素敵な循環ですよね。そのために私は、海外も巻き込んで女子野球の場を広げていきます。

 きった・めぐみ 1983年1月生まれ、兵庫県三木市出身。2014年に履正社高監督に就き、17年選抜大会で優勝。18年W杯は日本代表初の女性監督として6連覇に導いた。世界野球ソフトボール連盟の技術委員としても女子野球の普及に携わる。

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