1949年、静岡県・熱海駅のホームでスクラムを組み、革命歌を歌うソ連からの引き揚げ者たち。シベリアでの「政治教育」の結果、引き揚げは「天皇島への敵前上陸」と考える人もいたという

 今から80年前の1945年8月23日、ソ連の国家防衛委員会は「50万人の日本軍捕虜の受け入れ、配置、労働使役について」とした9898号決議を出しました。日本人のシベリア抑留は、日本とソ連が国交を正常化する56年12月の日ソ共同宣言まで続きました。防衛研究所戦史研究センターの花田智之主任研究官は、「風化させてはいけない歴史であり、対米協調路線という戦後日本の選択に、シベリア抑留も少なからず影響した」と語ります。

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 ――ソ連はいつごろからシベリア抑留を考えていたのですか。

 9898号決議をみると、ソ連のイルクーツク州やハバロフスク地方などの各地に、作業大隊単位での割り振りが細かく定められていました。ソ連では第2次世界大戦で2600万人以上にのぼる軍人・民間人が犠牲になりました。

 労働力を確保するため、日本軍の移送について入念な準備がなされたと考えられます。近年の研究成果では、ソ連当局において、ドイツ人を含む欧州の捕虜50万人の祖国帰還と日本人捕虜のソ連移送との関連を、労働力の代替という観点から論じていたことが明らかにされています。

 ――抑留者はどのような生活を送ったのでしょうか。

 まず、抑留者の数ですが、日本の厚生労働省の公表データでは、約57万5千人(うち死者約5万5千人)となっています。ただ、ソ連のタス通信は当時、59万4千人と伝えました。主に、満州(中国東北部)や樺太(サハリン)、千島列島、朝鮮北部から強制抑留されました。

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