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眉間にしわを寄せ、戦地での体験を振り返る村本義雄さん=2025年8月20日、石川県羽咋市上中山町、砂山風磨撮影

 先の戦争から80年。能登に生まれ育った100歳の村本義雄さん=石川県羽咋市=は、18歳で志願して戦場に向かった。戦後、国の特別天然記念物・トキの保護に力を尽くす村本さんは、命を軽んじた当時の自分を「全く恥ずかしい」と声を震わせる。

 人の命は鴻毛(こうもう)(鳥の羽毛)より軽し――。それが当然とされた少年時代だったと振り返る。

 治安維持法が制定された1925(大正14)年、羽咋郡下甘田村上中山(現羽咋市)の農家に生まれた。満州事変勃発の半年後、尋常小学校に上がる。校長は「日本の男に生まれたならば、国のために命を捧げなさい」と繰り返した。

 全校朝礼では軍歌「海ゆかば」を斉唱。海に行ったら水につかった屍(しかばね)となり、山に行ったら草の生える屍となり、天皇の足元で死のうという内容。朗々と歌い上げた。

 10代半ば、大阪で働き始めたが、工員として徴用された。軍需工場で働き、休みの日曜には「唯一の娯楽だった」という映画館で「ニュース映画」を見つめた。日本軍の攻撃が勇ましく報じられ、館内に「日本万歳、万歳」の声が響いた。

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戦時中に撮影したという村本義雄さんの写真がアルバムに残されていた=本人提供

 村本さんは18歳になっていた。「自分にもやれる」との思いが募った。陸軍入隊の書面に、承諾したとして父の名前を自ら書き入れて志願。身体検査で地元に戻ると、両親は驚いた表情を見せたが、何も言わなかった。

 「もう帰ってこない。これが遺品になるといい」と思い、そり落とした髪と爪を紙に包み、黙って仏壇に入れた。

戦地への船が爆撃に、冬の海へ飛び込んだ

 43年12月。「木っ端みじんになっても、米英を撃滅してきます」とふるさとの駅であいさつし、汽車に乗り込んだ。「死ぬことが本望」。そんな感覚だった。

 歩兵第83連隊の要員として…

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