イタリアを代表する現代作家の一人で、ノーベル文学賞候補として名前が浮上することもあるダーチャ・マライーニさん(87)。このほど、83年ぶりに札幌市北区の北海道大学内にあった自宅跡を訪れた。ここは特別高等警察(特高)による冤罪スパイ事件「宮沢・レーン事件」の現場でもあり、レーン家とは家族ぐるみで付き合っていた。今回の札幌訪問の最終日、ダーチャさんは朝日新聞記者に、「記憶」を大切にするように、と言い残した。彼女のいう「記憶」とはいったい何か。
ソノ・モルト・エモツィオナータ・・・。「西5丁目・樽川通」に面した雑木林に立ち入ったダーチャさんはつぶやいた。2歳だった1938(昭和13)年12月から4歳だった41(昭和16)年3月まで、ここにあった北海道帝国大(現北大)の教員向け住宅に住み、隣家の米国人英語教師のレーン夫妻や、工学部生の宮沢弘幸さん(1918~47)らと出会った。マライーニ一家は事件前に転出しており、連座を逃れた。


83年という時の流れについて尋ねられたダーチャさんは、樹冠のすき間から見える灰色の空を一瞬見上げ、優しくゆったりとしたイタリア語でつぶやいた。「私はここに立って、とても感動しています。ここは、これらの木々のおかげで、私にとって大切な過去の多くの記憶を保つことができる場所ですから。私にとって本当にかけがえのない記憶ですから」
アイヌ民族研究の父と「宮沢・レーン事件」
父フォスコ・マライーニさん(1912~2004)は文化人類学者で、1938年の札幌への転居はアイヌ民族研究のためだった。

フォスコさんは、ご近所のレーン夫妻が主催したサークル「心の会(ソシエテ・デュ・クール)」に加わり、そこで、語学にたけて探究心旺盛でスポーツマンだった宮沢さんと親しくなった。宮沢さんはダーチャさんの写真を多く撮り、「澄み切りし青き瞳」をほめ、「なづかしげに(恥ずかしげに)我が名を呼べるイタリアの乙女のすがた、妹のごとし」とアルバムに記した。ダーチャさんの心にも、宮沢さんが「情愛の深い人」として刻み込まれた。マライーニさん一家は宮沢さんと山登りや水遊びを楽しんだり、アイヌ民族のコタン(集落)をともに訪ねたりした。

しかし、真珠湾攻撃があった…