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阪神・淡路大震災では地震の後、各地で火災が発生した=1995年1月17日、神戸市長田区

 1995年に起きた阪神・淡路大震災から今年で30年。その16年後に東日本大震災が起きるなど、この30年は災害の時代だった。災害復興はこの間、どう進化・深化してきたのか。京大防災研究所の牧紀男教授(57)=建築学=が語った。

牧紀男さん略歴

 まき・のりお 京都大防災研究所社会防災研究部門教授。京大在学中に起きた雲仙普賢岳噴火災害から、災害復興をずっと見てきたと自負。自治体の防災計画策定にも携わってきた。著書に「平成災害復興誌」(慶応義塾大学出版会)など。

災害にあったまちを安全に 「近代復興」の到達点

 阪神大震災からの復興は、災害にあった場所を安全につくりかえるという「近代復興」の到達点だったといえます。

 関東大震災(1923年)や戦災からの復興では、都市計画によってまちの基盤が整備された。伊勢湾台風(59年)の2年後に災害対策基本法ができ、行政が主体となってまちを物理的に再建する枠組みが、整えられていきます。阪神大震災でも、土地区画整理や再開発事業による復興が直後から動き出しました。

 一方で阪神では、個々人の生活再建、特に住まいの再建に「公」がどうかかわるかという新たな課題が、浮上します。

 私有財産である住宅には公的な支援はできない。それが近代復興の考え方でした。困窮している人には、セーフティーネットとして応急仮設住宅や災害公営住宅を提供したが、それ以外の大多数は自己負担で住まいを確保する。それが基本だったのです。

個人の住宅再建へ 「公」のかかわり

 ところが阪神の前、90年の雲仙普賢岳噴火災害や、93年の北海道南西沖地震・津波災害では、国じゅうから巨額の義援金が集まり、行政が配分して個人が手厚い支援を受けました。その記憶もあって、「災害にあえばお上(かみ)が助ける」という認識が広がり、社会的な合意になってゆく。日本が豊かになったことも背景にはあるでしょう。

 98年には被災者生活再建支援法が制定され、被災者個人への直接支援の仕組みができます。改正が重ねられ、2007年には住宅本体の建築や購入に支援金を使えるようになった。東日本大震災では、約21万世帯に計3800億円が給付されました。

 もう一つ、この30年の災害復興を通じて課題になったのが、地域のにぎわいをどう取り戻すか、でした。

 経済成長の時代なら、まちを再建すれば経済はおのずと活性化した。しかし阪神では数年後から、商店街に人が戻らず、地場産業の苦境が続くといった問題が顕在化しました。

 04年の新潟県・中越地震は、人口減が進んでいた中山間地を襲いました。復興のテーマは、まさに地域をどう維持するか。県が拠出した復興基金の運用益を使う形で、様々な地域活性化策が取り組まれました。

 東日本大震災でも、衰退しつつある地方が広い範囲で被災し、人々の生業(なりわい)の場がまるごと破壊され、地域経済を担う中小の事業者が大打撃を受けた。そこで新たな復興施策が導入されました。

 仮設工場や仮設店舗など、事業再開のための仮の建物を国のお金で整備したことと、被災企業の設備再建費用などの4分の3を出すグループ補助金の創設です。後者は計約1万2千社に5300億円が交付されました。

 阪神の後、近代復興から外れていた、個人の住宅再建や中小企業の再建への直接支援に一歩ずつ取り組んだのが、この間の災害復興でした。「公」的支援の対象は「私」的な領域に大きく広がった。東日本大震災はその到達点でした。

再建されたまちに、人は戻らず

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津波で被災した集落が集団移転をしてできたまち=2024年3月、宮城県岩沼市玉浦西地区

 それでもなお、課題は残った。

 再建されたまちに人が戻らなかった例が、東北にはいくつもあります。復興事業の完成を待たず、ほかの場所に住まいを求めた被災者が多かった。公的な都市基盤の整備(まちの復興)と、個人の住宅再建(人の復興)が連携できていなかったのです。多額のグループ補助にもかかわらず、地域の生業再生は途上です。

 復興とは何か、全体のビジョンがないままつぎはぎで公的支援を広げ、穴を埋めていった。その結果かもしれません。

 今後、南海トラフ巨大地震や首都直下型地震の被害規模を考えると、「公」が主体となり手厚く支える復興の仕組みは限界です。被災者生活再建支援制度は財源的に破綻(はたん)する。個人の住宅再建は保険制度(地震保険)を基本にし、再建が難しい人はセーフティーネットで柔軟にカバーすべきでしょう。

 そのうえで、「公」が責任や資金のすべてを担う仕組みから、官民協働の「地域」が中心となる復興に変えてはどうか。鍵となるのが「事前復興」です。

地域で議論、「事前復興」がかぎに

 災害や人口減少といった課題を踏まえ、自分たちの地域が将来こうあってほしいというビジョンを災害前から議論しておく。計画を立てて、対策を進める。災害に襲われたら、地域が事前に描いた復興の姿が実現できるよう、行政、民間、NPOなど様々な主体が取り組みを引き受ける。そんな形が望ましいと思います。

 能登半島地震の被災地は、その準備もないまま、復興に直面することになりました。災害の歴史が積み重ねてきた教訓をふまえ、少子高齢化・人口減少社会の新たな復興の仕組みを、構築しなければなりません。

災害と復興の歴史

1947年    災害救助法の制定。応急仮設住宅などの救助について定めた

1959年    伊勢湾台風

1961年    災害対策基本法の制定。応急対応、災害復旧、防災など災害対策の基本を定めた

1962年    激甚災害制度を創設。インフラ復旧への国の財政支援について定めた

1964年    新潟地震。これを機に地震保険制度発足

1990年    雲仙普賢岳噴火

1993年    北海道南西沖地震・津波

1995年    阪神・淡路大震災

1998年    被災者生活再建支援法の制定

2004年    中越地震

2007年    被災者生活再建支援法の改正。個人の住宅再建への公費投入の道を開く

2011年    東日本大震災。翌年に復興庁発足

2016年    熊本地震。東日本大震災時のグループ補助金などが引き継がれる

2019年    東日本台風。10年代に入って豪雨災害が頻発するようになる

2024年    能登半島地震

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