1945年5月11日から14日まで開かれた最高戦争指導会議で、日本はソ連の参戦防止を前提とした戦争指導を行うことを決めました。広田弘毅元首相は6月に2回にわたり、箱根の強羅ホテルでソ連のマリク駐日大使と会談しますが、局面の打開にまでは至りませんでした。防衛研究所戦史研究センターの花田智之主任研究官は、国体護持を最重視していた日本が、共産主義国家の仲介に頼った背景について「それしか選択肢が残されていない、大国間外交という政治決断だった」と語ります。
- 「スターリンは西郷隆盛」と語った鈴木貫太郎 人が繰り返す甘い認識
――80年前の日本はどんな状況でしたか。
終戦工作を行った鈴木貫太郎内閣の組閣直前の45年4月5日、ソ連は日ソ中立条約を延長しないことを日本に通告しました。条約は41年4月から5年間有効で、自動延長しない場合は1年前までに相手国に通告することになっていました。鈴木内閣は条約が46年4月まで有効だとの認識を前提に、ソ連の好意的中立を維持し、参戦を防ぐよう努力します。
一方、沖縄戦の敗北が決定的になるなか、鈴木首相や東郷茂徳外相らは終戦工作に乗り出します。ただ、米英との直接交渉は本土決戦を叫ぶ陸軍中枢部の強い反発を買う恐れがありました。他にも、中立国のスウェーデンやローマ教皇庁を通じたルートもありましたが、東郷外相は「大国による仲介でなければ、米英を説得できない」と主張し、ソ連による仲介工作を唱えました。東郷氏は駐ソ大使として、モロトフ・ソ連外務人民委員(外相)との間で39年に起きたノモンハン事件の停戦交渉を行った経験もあり、ソ連との外交に自信を持っていたようです。
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ウクライナにとどまらず、パレスチナ情勢や台湾、北朝鮮、サイバー空間、地球規模の気候変動と世界各地で安全保障が揺れています。現場で何が起き、私たちの生活にどう影響するのか。のべ350人以上の国内外の識者へのインタビューを連載でお届けします。
■2回で終わった強羅の広田・…