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 プロ野球・阪神タイガースが7日、2年ぶりのセ・リーグ制覇を果たした。チームの中心には兵庫県内出身の選手が多くいる。野球にひたむきに取り組み、日常生活でも「自分」を持ち続けた中学、高校時代の素顔について、当時の指導者に聞いた。

入学当時「4番手」からエースへ

才木浩人投手(26)=神戸市立王塚台中→須磨翔風、16年ドラフト3位

 「背は大きかったが体の線が細い。でも、フォームにしなやかさがあって面白い素材だな」

 須磨翔風高の中尾修監督(59)は、入部当時の才木浩人選手を見て、そう思った。身長は180センチを超えていた。

 神戸市立王塚台中から入学した。同学年には才木選手のほかに、神戸市の中学生大会で1~3位になった学校のエースが入部していた。だから、投手としては「4番手」だったという。

 中尾監督が「体をつくってから」だと、食事や体幹トレーニングの重要性を説くと、才木投手は地味なメニューにも打ち込んだという。

 「並の選手とは違った」と中尾監督が感じたのは、練習への姿勢。どれだけしんどくてもコツコツと続けて自分を追い込む。「私が思っていたよりも高い成長曲線を描いた」と話す。休み時間があるごとに、おにぎりを食べて体重を増やした。

 球速は上がり、2年生からエースに。そのとき、もっと伸びてほしいと中尾監督はプロへの道を再確認させた。才木選手は「スイッチが入った」と中尾さんに話したという。現在は150キロ超の直球を投げる投手に成長した。

言動ぶれずマイペース

佐藤輝明内野手(26)=西宮市立甲陵中→仁川学院→近大、20年ドラフト1位

 佐藤輝明選手は、西宮市立甲陵中から仁川学院高へ進学した。同校野球部の中尾和光部長(46)は「とにかくマイペースで、良くも悪くもガツガツしていなかった」。監督らにアピールすることはなかったという。

 印象に残るのは、2年になる直前の練習試合。実力的に主力だったが「積極的な姿勢や貪欲(どんよく)さを出してほしい」とあえて先発メンバーから外した。

 代打で途中出場すると本塁打を放った。先発出場したその日の2試合目でも本塁打を放った。試合後、中尾部長は佐藤選手にどんな思いだったか聞いた。「スタメンで出たい。周りに認められるように頑張ります」との言葉を期待していたが、違った。

 「凡退した打席が悔しい」と返ってきた。「こっちが考えていることと違った。自分のペースが本当にぶれない」と中尾部長は笑う。佐藤選手は今季、36本塁打(8日現在)で本塁打王へまっしぐらだ。

自ら考え「我が道を行く」

村上頌樹投手(27)=南あわじ市立南淡中→智弁学園(奈良)→東洋大、20年ドラフト5位

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阪神先発の村上頌樹=2025年6月6日午後6時5分、阪神甲子園球場、米田怜央撮影

 村上頌樹投手は、南あわじ市立南淡中時代、硬式クラブのアイランドホークス(現・淡路ボーイズ)に所属した。入部当時の監督で、現在は同クラブの代表を務める倉本真由美さん(81)は、「はっきり言って何を考えているのか分からなかった。周りに感化されることなく『わが道を行く』感じ」となつかしむ。

 身体能力は「小学生の時から群を抜いていた」。投げることに関しても打つことに関してもほとんど直すところがなかった。欠点を強いて言うなら体が大きくなかったこと。投球の力強さを出すために下半身作りに重点を置き、練習の半分ぐらいは走っていた。「自分の欠点を補う練習を自分で考えてしていた」という。

 コントロールが良かったが球速がなく、倉本さんは「大学までやれたらいいほうやろう」と思っていた。今では140キロ後半を投げる。2年前には最優秀防御率のタイトルを獲得し、今季も2桁勝利を挙げた。その姿に、「小さい頃と変わらず、自分で考えて取り組んだのだろうな」と目を細めた。

投手打診を拒否、強い責任感

近本光司外野手(30)=淡路市立東浦中→社→関西学院大→大阪ガス、18年ドラフト1位

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阪神タイガースの近本光司選手。優勝を決めた試合でも打点をあげた=阪神甲子園球場

 近本光司選手は、淡路市立東浦中の軟式野球部に所属し、左腕投手として活躍した。

 当時の監督だった巽史明さん(52=現・淡路市立一宮中教諭)は、近本選手が当初、投手を拒んだことが印象に残っている。「長く野球に携わっているなかで断られたのは初めて。責任感が強いからこそ、全部背負い込むことの大変さを分かっていたのでは」と想像する。

 それでも中学2年秋から投手として起用された。雨を言い訳にしないように、あえて泥がついたボールで自主的に練習した。

 社高の監督だった橋本智稔さん(現・同校長)は「とても楽しそうに取り組んでいた」と振り返る。こだわりの強さのなかにも周囲への配慮もあった。寮長に選ばれたが、寮運営の不満を聞いたことがなかったという。

 近本選手はいま、子どもたちの挑戦をサポートするなど社会貢献にも熱心だ。県高校野球連盟会長でもある橋本さんは「野球やスポーツの楽しさを広めていってほしい」と願う。

備わっていた捕手力

坂本誠志郎捕手(31)=養父市立養父中→履正社(大阪)→明大、15年ドラフト2位

 坂本誠志郎選手は、養父市立養父中の軟式野球部に所属した。「入学のころから野球をよく知っていた」と振り返るのは、当時の監督だった岩浅克友希校長(56)だ。

 ポジションは当時から捕手だ。ワンバウンドの投球が不規則に跳ねることを防ぐために、目の前の地面を平らにならす。かえってきた走者が本塁を踏んでいるかどうかを必ず目視する。「教えなくても最初からできていた」と岩浅さん。

 中学2年生の但馬地区の中学総体決勝でサヨナラ負けしたときも、悔しがるより先に走者が本塁を踏んだかどうかを確認していた姿を覚えている。

 坂本選手が卒業してから16年で養父中の全校生徒は100人近く減った。岩浅さんの野球部の教え子でプロ選手になったのも、甲子園に出場したのも坂本選手だけだ。

 坂本選手の3年間は、無遅刻無欠席。自宅から学校まで約3キロを自転車で通った。3年生のときには生徒会副会長を務めたという。「野球よりまず先に基本的な生活習慣がしっかりしていた。プロ野球選手になるなんて思いもよらなかったけど、今になって考えれば、何事にも全力で取り組む姿勢がプロへつながったのかもしれない」

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