片岡城の本丸。激戦の舞台になった=筆者撮影

片岡城(3)

 奈良県上牧町にある片岡城について、話を続ける。先に見た「信長公記」の記述から、片岡城の攻防戦が激戦であったこと、片岡城を守った森・海老名の2人の城将を筆頭に最後まで抵抗して百五十余人が討ち死にしたように、松永軍の士気と忠誠心は高かったのがわかる。織田軍が攻略に手間取れば新たな謀反人が出かねない状況で、堅固な守りの片岡城に一番乗りを果たして勝利に導いた15歳の長岡(細川)与一郎(忠興)の活躍は、まさに織田信長が自筆の感状を与えるべき特筆すべき手柄だった。

 そして、これまで片岡城の攻防戦は「信長公記」の記述にもとづいて説明されてきた。ここでは改めて、細川家側の記録「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」から手柄の現場を読み直してみたい。「綿考輯録」はまず「森勘解由左衛門秀光・海老名源八郎勝正などに一揆勢が加わって、片岡城に三千余人が籠城(ろうじょう)している。9月27日に織田信忠卿が数万の軍勢を率いて大和に出陣した」と状況を記す。織田軍は大軍だが、片岡城の三千余の兵力は信貴山城の支城としては多く、大和川の対岸を押さえた片岡城の重要性が伝わってくる。

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