【動画】国際平和シンポジウム2025「核兵器廃絶への道~戦後80年、未来へつむぐ」参加者からのメッセージ=アリ・ビーザーさん撮影
広島・長崎を米軍が核兵器で攻撃してから80年。両方の原爆投下機に搭乗した米兵の孫と「二重被爆者」の孫が出会い、友情を築いてきました。2人が広島に集い、家族のことや日米の関係、謝罪と和解、そして葛藤を語り合いました。
――おじいさんのことについて教えてください。
原田小鈴さん(以下、コスズ) 長崎では学校の夏休みに、原爆とか平和をテーマに宿題が出されるんですね。それで、三菱重工業の造船技師だった祖父が広島・長崎の「二重被爆者」だと、6歳の時に初めて知りました。
戦後長らく、祖父は自分が被爆した体験を語ろうとしなかったらしいのです。被爆者に対する偏見や差別があり、未婚の娘2人もいましたので、祖父が被爆証言活動をすることに、家族が反対したそうです。
また、山口仙二さんや谷口稜曄(すみてる)さんら、長崎を代表して証言活動をしていた被爆者の方々には、体に大やけどのあとがありました。祖父は2回も被爆したけれど、外見上は目立った傷がない。そういう人が公で話すことで、3度目の被爆(核兵器使用)も大丈夫だと米国に受け止められるのではないかと、家族が危惧したのです。
息子に先立たれたあと、90歳になってから証言するようになりました。2010年、93歳で亡くなりました。
――お二人が出会ったきっかけは。
コスズ 13年にアリが長崎の私の実家に被爆2世の母を訪ねて来てくれたんです。連絡をいただいた時は、家族でとまどいました。何が聞きたいのだろう、と。
アリ・ビーザーさん(以下、アリ) それまでに、たくさんの被爆者に会って取材をしてきました。12年に初めてお会いした谷口さんは、シャツをまくり上げて、大やけどのあとを見せてくれました。忘れられません。
祖父(ジェイコブ・ビーザーさん)は、ぼくが4歳の時に亡くなったのであまり覚えていません。小学校では先生が「あなたのおじいさんは戦争を終わらせた英雄ですよ」と教えていました。
だから日本に来るまでは、第2次世界大戦は日本が始めて米国が終わらせたと、単純に考えていました。でも、広島と長崎で被爆者の方々のお話を聞くと、それは違う、もっと複雑なことだと気づきました。今も生きている被爆者は、被爆した時はまだ子どもだったり、お母さんのおなかの中にいたりした人もいます。
――被爆者たちの間では、米国政府に対して、被爆者に謝罪したうえで、核兵器のない世界の実現を求める声が根強くありますが、いまも果たされていません。
コスズ 私は広島・長崎「二…