ドイツ・ポツダムで1945年7月、並んで座るアトリー英首相(左)、トルーマン米大統領(中央)、スターリン・ソ連首相。米国立公文書館の陸軍信号隊コレクション=米海軍歴史遺産司令部のホームページから。スターリンは会議には参加したが、ポツダム宣言には署名しなかった

 80年前の1945年7月26日、英米中3首脳は日本に降伏を求める最終宣言(ポツダム宣言)を出しました。宣言は戦争指導勢力の「永久除去」をうたいましたが、日本政府が最も重視した「国体の護持(天皇制の維持)」については触れませんでした。防衛研究所戦史研究センターの進藤裕之主任研究官は、日本が最終的に宣言を受け入れる過程で「開戦時まで駐日大使を務めたジョセフ・グルーら知日派の果たした役割が大きかった」と語ります。

焦点になった表現「subject to」

 ――宣言は国体護持に触れませんでした。

 日本は当時、終戦を巡る最終局面に入っていました。徹底抗戦を唱える軍部と対立する鈴木貫太郎首相や東郷茂徳外相らの和平派は、「無条件降伏もやむを得ない」と考えていました。ただ、国体護持の保証について非常に重視していました。

 日本側は中立国を通じたルートなどで「国体護持」について問い合わせました。連合国側は8月12日、「天皇及び日本政府の国家統治権は連合国軍最高司令官にsubject toする」という趣旨の返答をしました。

 直訳すれば「支配下に置く」という意味ですが、日本側は徹底抗戦派を刺激しないよう、「制限の下に置く」と訳しました。連合国側は返答のなかで「日本国の最終的な政治形態」について「日本国国民の自由に表明する意思」によって決定されるべきだとも説明しました。こうして和平派は「国体護持は保証された」と解釈しました。

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