100年をたどる旅 沖縄編

「100年をたどる旅~未来のための近現代史」沖縄編⑥

 戦後、米占領下にあった沖縄が1972年に日本に復帰すると、言葉や文化、経済の「本土化」はさらに進んだ。一方、沖縄は、国内有数の観光地となり、独特な文化や青い海、異国情緒あふれる雰囲気といったイメージが定着する。しかし、その本土からのまなざしに、次第に映りにくくなったものがある。

 沖縄出身の桃原(とうばる)一彦・沖縄国際大教授(56)は1992年から5年間、東京の大学院へ通った。当時は日本復帰20年を記念して首里城が復元され、歌手の安室奈美恵さんら沖縄のアーティストやドラマが全国で人気を博す「沖縄ブーム」のまっただ中。東京の沖縄県人会青年部で事務局長をしていた桃原さんの元にも、伝統演舞「エイサー」や三線(さんしん)を習いたいという本土の人たちが多く集まった。

米兵による少女暴行事件に抗議する県民総決起大会の参加者。沖縄の言葉で「ニジティン ニジララン(もうこれ以上我慢できない)」と書かれたプラカードなどを掲げる=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園

 そんな95年秋、沖縄で少女が米海兵隊の男3人に暴行される事件が起きた。沖縄では抗議する県民総決起大会に8万人超が参加し、桃原さんらも東京・渋谷で抗議のビラを配った。だが、受け取る通行人はごく少数だった。

「あるべき沖縄」の押しつけが生む亀裂

米兵の少女暴行事件に抗議する沖縄県民総決起大会の会場を埋めた参加者=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市、朝日新聞社ヘリから

 沖縄に戻っていた2004年8月には、勤務先の沖国大に米軍ヘリが墜落し、乗員3人が負傷した。大学構内を米軍が封鎖し、現場検証を求める警察も締め出された。基地と隣り合わせに暮らす危うさと理不尽さを示す事故だった。しかし、全国紙ではトップニュースにならなかった。

 「あれだけ『沖縄好き』と騒…

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