槇文彦さん=ロンドン、2018年6月、石合力撮影
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 二十数年にわたり建設され続けた東京・代官山のヒルサイドテラスや東京体育館、千葉・幕張メッセを手掛けた国際派の建築家・槇(まき)文彦さんが6日、95歳で死去した。学生時代から薫陶を受け、近年も親交の深かった建築家で東京大名誉教授の隈研吾さんが悼んだ。

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 槇文彦の設計による、代官山ヒルサイドテラス(1969年第1期竣工(しゅんこう))に出あった時の衝撃は今でも忘れられない。大学で建築を学び始めてはみたものの、70年代初頭の建築界を風靡(ふうび)していたのは、ギラギラした超高層建築や、これみよがしの派手なデザインの公共建築群で、どれも成り金風で品がなく、共感できるものはひとつもなかった。

 その中で槇の建築だけは、まったく別の、さわやかで控えめで、しかも周囲の街と融(と)けあう、開放的な空気感をたたえていた。

 今から思い返せば、槇の建築はひとつの大きな転換の予兆であった。

 人口の急増した戦後日本は、大きくて派手な建築を大量に造り続けることで、都市化を進め、経済を成長させるという、ひどく粗っぽいモデルで走り続けていた。そのモデルのフロントランナーであり、リーダーであった建築家、丹下健三の門下生であったにもかかわらず、槇はそのモデルの限界に最も早く気づいた。

 槇は丹下研を飛び出し、日本…

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