高畑勲監督2015年インタビュー【前編】
戦後80年の今夏、ネットフリックスによる日本での配信が始まる、スタジオジブリのアニメ映画「火垂るの墓」。朝日新聞がそのことを報じた際、関連で紹介した生前の高畑勲監督(2018年死去)のインタビュー動画にも注目が集まりました。戦後70年を迎えた15年夏、多くの人の記憶に残る「戦争を語り継ぐ作品」となっていることについて、高畑さんに聞いたものです。
- 【後編】「見た人はそこに怯えてほしい」火垂るの墓、意地悪なおばさんの真実
作中で戦争の悲惨さをあえて強調しなかった真意とは――。
10年後のいまにも通じるその内容を再構成し、前編と後編にわけてお届けします。
――「火垂るの墓」は1988年公開、「となりのトトロ」と同時上映でした。
水と油のような2作を同時上映できたのはスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーの力でした。「火垂るの墓」が多くの人の心に残っていることはありがたいです。テレビで繰り返し放映され、見てもらえる機会が多かったことに感謝しています。
――公開から長きにわたって、多くの世代に愛されていますね。
自分では言いづらいですけど、スタッフたちが1ショット、1場面、人物の動きもふくめてできるだけ誠実に描こうと努力したからでしょうね。もしストーリーを追うためだけの表現だったら、見ているうちに飽きられてしまう。長く見てもらうのは無理だったような気がしますね。
火の海を経験「清太と節子より危険だった」
――当時すでに野坂昭如さんの原作小説が出て20年ほど経っていましたが、なぜアニメ化しようと考えたのでしょうか?
これ、たぶんいい話にならないですよ(笑)。
実は、そんなに僕は野坂昭如さんを知ってたわけじゃないんですね。鈴木プロデューサーが、そういう世代なんですよね。その上で、私が原作にひかれたのは、2人(清太と節子の兄妹)がいかに死に向かっていったかを閉じた世界の中で描くという「心中もの」の構造があったことです。アニメなら新しい求心力で描けるのではないかという表現上の野心が強かったですね。
それから、もちろん自分が空襲を経験していること(少年時代に住んでいた岡山市で)が基盤にありました。空襲の逃げ方から言うとおそらく、2人より、僕と姉(当時小学4年と6年)の方がずっと危険でしたね。逃げた方向に焼夷(しょうい)弾が落ちてきて、火の海の中で立ち往生してしまった。よくぞ助かったなと思いますけれども。
――「表現上の野心」と話されましたが、2人を幽霊として登場させるシーンもありましたね。
日本の人はあんまり宗教とか関係なく、死んだ人がすぐ身の回りにいるんじゃないかと思っていますよね。
広島の原爆碑にも「安らかに眠って下さい」とあるけども、「眠った」とは全然思ってない。「草葉の陰から見守っている」とか言いますよね。どこかすぐ近くにいて、こっちを見ているというね。四十九日を過ぎても、魂がとどまっていると考えているんです。
「人間は悲惨だけじゃ生きられない」
――悲惨すぎて「もう二度と見たくない」と思いつつ、また見てしまう人も多いようです。
今の人がとらえ間違える危険性があるのは、悲惨な時代でも、人間は悲惨だけじゃ生きられないということです。
だから、喜びも楽しみも十分あるわけです。それを見つける天才ですから、子どもっていうのは。
背中がひどい状態になるとか、栄養失調になってどういう症状が生まれるかとか、あるいは、人間が死んだときにはどういうひどい扱いを受けるかとか。そういうのは、すごく感情的に「悲惨だ」ということじゃなくて、ある意味淡々と、悲惨な状態そのものの事実だけを描いた方がいいと思うんですよね。悲惨そのものは隠したらダメですが、「悲惨でしょう、ちょっと涙をお流しください」っていう描き方をするつもりは全然なかったんです。
空襲の場面なんかは、あっけ…