今でも時々、あの夜のことを思い出す。

 2019年9月26日、東京・都市センターホテル。

 第60期王位戦七番勝負最終第7局。

 挑戦者の木村一基九段が豊島将之王位との大一番を制し、4勝3敗で初めてのタイトルを手にした。

 46歳での初戴冠(たいかん)は、1973年に有吉道夫棋聖が誕生した時の37歳を大幅に超える史上最年長記録だった。

 7度目の挑戦での初獲得は史上最多記録だった。

 四段昇段時年齢23歳はタイトル獲得者として史上最年長記録だった。

 過去8局の「あと1勝」を逃し続けた棋士が手にした「9度目の正直」だった。

 早熟の天才たちが覇者の系譜を紡ぐ世界で、かつて誰も実現できなかったことを誰よりも共感を誘う晩成の棋士がやってのけた夜だった。

将棋の木村一基九段(52)が20日、東京都渋谷区の将棋会館で第84期名人戦・B級2組順位戦4回戦で羽生善治九段(54)戦を迎えた。2019年、史上最年長の46歳で初タイトルを獲得した歓喜の夜から6年。奮闘を続ける今の思いを聞いた。

 感想戦終了後、激闘の余韻が残る対局室で私は尋ねた。

 どんな言葉を語るかを聞きたい、と最も願った問いだった。

 「誰より喜んでいるのは奥様と娘さんだと思います。ご家族の存在と支えについてお言葉を頂けないでしょうか」

 目が合った後、木村はうつむいて沈黙に落ちていった。

 深く息を吐き出し、眼鏡を外した。

 数分前まで駒に触れていた指先で目元を拭った。

 瞳からこぼれた涙は手拭いで止めた。

 ストロボの光と音が無数に重なった。

初タイトル獲得後、目に涙を光らせる木村一基新王位(当時)=2019年9月26日、東京都千代田区の都市センターホテル、伊藤進之介撮影

 15畳の対局室を埋め尽くした50人もの報道陣、ライブ中継を見守っていた人々は同じ思いを共有していた。

 目の前の中心にいて、肌で感じていた。

 木村は私に視線を送り、柔らかく笑って言った。

 「……家に帰ってから言いたいと思います……伝えたいと思います」

 あの瞬間のことを、あの瞬間に抱いた感情のことを、私は幾度となく思い返してきた。記者というよりも一個人として。

 木村の戴冠は、将棋や棋士と…

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