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 第2次世界大戦末期、日本全国は米軍による激しい空襲にさらされた。攻撃対象は大都市から地方都市へ広がり、罹災(りさい)者は数百万人以上と言われる。民間人被害者の救済問題など、その傷は戦後80年の今も残る。

写真・図版
米軍が撮影した終戦直後の東京・日本橋一帯(手前)と両国付近(奥)。左から右に流れる隅田川と新大橋が写る

東京大空襲 「夜間、低高度」での焼夷弾攻撃

 最初の日本本土空襲は太平洋戦争開戦5カ月後、1942年4月の「ドーリットル空襲」だ。近海に忍び寄った空母発の米機16機が京浜、中京、阪神を襲った。約100人が死亡し、白昼の攻撃は衝撃を与えた。

 空襲が本格化するのは44年6月以降、中国内陸部の成都や太平洋のマリアナ諸島に大型爆撃機B29が配置されてからだ。

 米軍は状況に応じ、戦術を変えた。はじめは反撃されにくい高高度から、製鉄所や航空機工場などを狙って昼間に爆撃した。だが、1万メートルもの上空からでは精度が低い。日本軍の迎撃能力の低さも分かり、夜間・高度3千メートルからの作戦に切り替えた。

 そして、最初の日本への本格的な「夜間・低高度」による焼夷(しょうい)弾攻撃が、45年3月10日未明の東京大空襲だった。約300機のB29が下町の人口密集地に約1700トンの焼夷弾を投下し、大火災が発生。死者10万人、罹災(りさい)者100万人に及んだ。

 東京は終戦までに100回以上攻撃されたほか、名古屋市は3月12日と19日、大阪市は13~14日、神戸市は17日に焼夷弾攻撃された。神戸市の豊田和子さん(96)は神戸空襲を逃げまどった。防空ずきんや髪の毛、リュックに火がつき、「ああ、もう死ぬな」と思ったという。逃れた防火水槽で、女性に背負われた赤ん坊が目の前で死んでいった。80年前の光景を鮮明に覚えている。

 45年6月からは攻撃対象が中小都市にも広がり、広島、長崎への原爆投下後も続いた。終戦当日となる8月14~15日も神奈川県小田原市や埼玉県熊谷市などが空襲された。

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