墓には生前、妻が好きだった缶ビールと梅酒、そして朝握った混ぜごはんのおにぎりを供えた。
「俺も年だから、また来られるか分からん。今年で最後になっかも」
大浦要三さん(76)は11日、福島県浪江町の海岸を望む高台の霊園で、敏衛(としえ)さん(当時60)に語りかけた。この日の朝、避難先の山形市を出て車でやってきた。
あの日、いわき市の職場で揺れに見舞われた。東北沿岸を次々と津波が襲うニュースをテレビで目にして慌てた。浪江町両竹の自宅は海岸から約600メートル。車で向かったが、いつも通る県道は大渋滞していた。敏衛さんは携帯電話を持っておらず連絡がとれない。日付が変わり、大熊町の長女家族の家に身を寄せた。
早朝、政府が東京電力福島第一原発から10キロ圏の住民に避難指示を出した。大熊をやむなく離れ、県内外の避難所や親類宅を転々とした。自宅にいた母は津波に流されながらも助かり、病院で治療中だと分かった。しかし、敏衛さんとは連絡が取れないまま。原発事故の影響で自宅周辺を捜すことはできず、「生きていてほしい」と望みを抱きながら、仕事を休んで避難所や遺体安置所を捜し回った。
5月に入り、敏衛さんが見つ…