南海トラフの巨大地震の際、宮崎県内では最大で高さ17メートルの津波が予想されている。大人はもちろん、自力で逃げるのが難しい幼い命をどう守るかは、大きな課題だ。東日本大震災でも、多くの子どもが亡くなった。能登半島地震から間もなく5カ月、「3.11」から13年。教訓を忘れずに備え続ける幼稚園(認定こども園)を見た。
地震です――。
3月7日午前10時半。延岡市櫛津町の「土々呂幼稚園」で、スピーカーから突然、大音量で緊急地震速報が鳴った。
「こっちー!」。職員が叫ぶ。外遊び中の子たちが、園庭中央の職員めがけて突進し、地面にうずくまる。室内の子たちは部屋の中央で床に伏せる。みんな、頭を抱えて「ダンゴムシ」のポーズだ。「怖いー!」。泣き声が響く。
2分後。「揺れが収まりました。避難を始めてください」。市来千代子園長(81)の緊張した声が響く。職員も子どもも園外へ走り出した。
通路脇の箱に置いてあるのは救命胴衣。隣の公民館の敷地で広げ、子どもたちは職員の指示を待たずに続々と自分で着始めた。難しい子は職員が素早く着させる。
着終わった子は2人1組で手をつなぎ、旗を持った職員の後を追い始めた。乳幼児はリヤカー。列を作り、住宅街を左へ右へ。山道を駆け上り、櫛津神社の裏、標高約20メートルの広場にたどり着いた。
園からは約500メートル。大人も子どもも息を切らす。最後尾の市来園長が登り切ったのは、揺れの放送から16分後だった。市への津波の襲来は第1波が最短17分後。ギリギリセーフだ。
「いつもの通り(時間内に)できました。でも地震はいつ起きるか分かりません」。市来園長が園児に注意を促す。「笑いながら逃げちゃった」。男児が照れくさそうに話した。
この訓練、事前に職員にも子どもにも知らせない完全な抜き打ちだった。園は月1回避難訓練を行っているが、対応力強化のために年に1回、どこかで仕掛ける。
背景にあるのが園の立地だ。市役所から南へ約8.5キロ、日向灘に面した土々呂漁港の奥の干潟のそばに立つ。国土地理院のウェブサイトでは標高2.2メートル。市に来る津波は最大14メートルの予想で、市のハザードマップでは、園は9メートル以上浸水するとされる。
市来園長が危機感を持ったのは、半世紀ほど前に延岡に住むようになってから。親族から「何かの地震の時、海面が50センチぐらい上がった」と聞いたのがきっかけだった。
3.11を機にどのように守るのか対策を急いだ。園が預かるのは0~6歳の約100人。地元や市と話し合い、一時避難場所として約500メートル離れた櫛津神社の裏手の高台を借りた。整地してコンクリートを打ち、テントや水、トイレ、非常食、オムツなど約80品目を収めたロッカーを置いた。数百万円の費用は自腹を切った。
いまは、その高台も孤立する可能性があると考え、さらに上へ逃げる階段を造っている。今年度中に完成予定だという。
本当は園ごと高台に移りたいが、リアス式海岸で適地は少ない。少子化で懐に余裕もない。「塀の倒壊や道の液状化で、思った通り逃げられない可能性もある。訓練も備えも『これで十分』ということはない」。市来園長の表情は硬い。(星乃勇介)
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市来園長のもう一つの懸念が保護者への引き渡しだ。
子どもは高台に避難する。だ…