全国でも屈指の高級住宅街として知られる田園調布(東京都大田区)。新1万円札の顔になった渋沢栄一が創立した「田園都市株式会社」が大正時代につくった街並みは、今もその美しい景観を保っている。東京の街並みが大きく変わる中、田園調布が変わらないのはなぜか、その理由を求めて歩いた。
東急東横線と目黒線が走る田園調布駅の西口から出ると、西洋風の旧駅舎が目に入ってきた。2000年に復元されたものだが、1923年の駅開業当初の姿をほぼ今に残す。
旧駅舎をくぐり、花壇と噴水のある広場を過ぎる。ここからイチョウ並木の3本の道路が放射状に延び、住宅街に続く。パリの凱旋門にある「エトワール式道路」と呼ばれるもので、渋沢の息子、秀雄のアイデアだそうだ。視察した米サンフランシスコ郊外の高級住宅街「セント・フランシスウッド」の放射状の道路に着想を得たとされる。
「かつては農村地帯で、田んぼや畑しかなかった」。大田区立郷土博物館の築地貴久学芸員はそう話す。築地さんや東急グループによると当時、東京都心に人口が集中し住環境の悪化が問題になっていた。
イギリスの都市計画家エベネザー・ハワードが提唱した緑と都市が調和する「田園都市論」(ガーデン・シティー)に影響を受けた渋沢は、東急のルーツにあたる田園都市株式会社を1918年に設立。下沼部村と呼ばれた農村を開発し、23年に分譲を開始した。
直後に関東大震災が発生したが、高台で地盤が強い田園調布の被害は少なく、大学教員や軍人、大企業の管理職など富裕層に人気が出たという。職場と住居を分離する考え方は、「ベッドタウン」のはしりといえる。
大きな住宅が立ち並ぶ、並木…