Smiley face
写真・図版
渡辺謙さん=東京都中央区、小山幸佑撮影

 俳優の渡辺謙が、井伏鱒二の著書「黒い雨」(新潮文庫)を朗読しているオーディオブックが配信されている。戦争の犠牲に対する「感性が鈍っている」という渡辺に、原爆の惨禍を語り継ぐ意義を聞いた。

過酷でつらい作品にトライしようとしたわけは

 《「黒い雨」は、被爆者・重松静馬氏の日記などをもとに、1965年に連載された小説。渡辺は、Amazonオーディブル(Audible)側のオファーを引き受ける形で、朗読に臨むことになった》

 映画「オッペンハイマー」(2023年、クリストファー・ノーラン監督)や、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)のノーベル平和賞……。原爆について考える機運はあると思うんです。

 しかしながら、被爆から80年も経つと、実際に体験者が経験を語る機会や、語り部の方々もどんどん少なくなっていて、被爆2世や若い世代が経験を語り継がなければいけない時代になってきていますよね。

 エンターテインメントの仕事をしている人間として、そうしたことに携われる機会がないだろうかと常々思っていました。ですから、「黒い雨」は非常に過酷でつらい作品ではありますが、トライしてみようと思いました。

写真・図版
「黒い雨」カバーアート=Amazonオーディブル提供

黒い雨

被爆者・重松静馬氏の日記などをもとに、井伏鱒二が編んだ小説。終戦から数年が経った広島県小畠村。閑間重松夫妻は、縁談の舞い込んだめいの矢須子の幸せな結婚を願う。ところが矢須子は広島市内で黒い雨を浴びていた。被爆者が直面する不条理と、その日常とを同時に描いた作品

練習中、20~30分読むと妻のため息が

 《小説では主人公らの「日記」という形をとり、原爆投下直後の広島市内の光景を描く。その描写は、ページを繰る手が止まってしまうほど詳細だ》

 改めて小説を読むと、つらい場面が多くて、さすがにページが進まなくて。ただ仕事なので「やらなきゃいかん」と思い直して。黙読していても読み進められないので、音読をすることにしました。

 自宅でペースを考えながら読み進めていると、妻がキッチンで聞いていたわけです。20~30分ほど読んでいくと、深いため息が聞こえてくるんですよ。「はあ、つらい……」と。

 小説を黙読していると、自分で場面を頭の中にイメージしますけど、音で聞くと、より鮮明にその場面のにおいや光景が浮かんでくるんだと思いました。これはオーディオブックにする意味があるんだな、と練習して感じました。

 僕は作品と聴取してくださる方の間で「立っている」感じがあるんですよね。途中にいるというか。だからちょっと客観性も持たせますし、セリフのやり取りでは主観に入って、また客観に戻っていく。そんなイメージで読みました。

 《全編通して11時間39分。収録は30時間超に及んだという。オーディオブックは停止ボタンを押さない限り、音声は流れ続ける》

 このつらさから逃げちゃダメなんだ、ということだと思います。

 どうしても僕らは、苦しいことや、つらいこと、見たくないものを避けてしまう生き物だと思います。

 でもこの作品の精神というのは、僕らが体験したことのないつらさや、過酷さに対する限界を、無理やり下げてくるように感じる。これは見なくちゃいけないんです、感じなきゃいけないんです、追体験しなきゃいけないんですと。

 《この作品の特徴は、終戦から5年ほど経った広島県小畠村の日常も語られるところだ》

 主人公である重松のめい・矢須子の結婚話だって、非常にありふれた話じゃないですか。延々と続く日常の話につながることが、本当の現実のような気がするんですよね。日常の一歩先に、原爆がある。

 戦地の話ではないので、いい意味で「さまつな日常」が描かれているのですが、そこにはほんの数秒で死に至ってしまう恐怖がある。それも突然。死がものすごく卑近な距離にあるということを、常に考えさせられながら物語が進んでいくんですね。

 なかなか今の僕らの感覚で受け止めきれない緊張感は、感じながら読んでいました。

写真・図版
「黒い雨」を朗読した俳優の渡辺謙=Amazonオーディブル提供

リアルを失っていく感覚

 《こうして戦争の記憶を語り継ぐのは、今を生きる者としての危機感もある》

 人間の感覚ってすごく怖くて、どんどんデジタルになっているじゃないですか。色々な情報もダイレクトに見られる時代で、海外のニュースも時間差なく見られるようになってきた。

 ただ感覚として、リアルじゃなくなってきている。流れてくる情報量や即時性みたいなものだけは増えていますけど。

 それこそ、ウクライナやガザの現状にも慣れさせられている。「黒い雨」に描かれるような日常の延長にある人の営みや命が、全く語られない……というよりは、僕らが体感できなくなっている。

 だからすごく高所から、俯瞰(ふかん)で物を見ている感覚で、色々なことを認知しているような気がするんですよ。

 そうすると、イデオロギー的に「こっちが正義だ」と解決しちゃって、この現状をどうやって止めたらいいのかという思考がストップしている。

 原子爆弾というものに関しても、若い世代には「必要悪だ」と考える人もいるんですよね。原爆は実際に地球や人類に対して、どんな影響を及ぼすのか。そういうことになかなか思いが至らない。

 では、何をどう提示したらいいのか、すごく難しい。そんな時代に入ってきているように感じます。

 《エンターテインメントの世界から戦争を伝えるとき、渡辺は自分の「フィルター」を意識するという》

写真・図版
渡辺謙さん=東京都中央区、小山幸佑撮影

 ある意味で、僕らは「イタコ」みたいなものなんです。自分の体を介して、何かを伝えていく。

 それでも、僕のフィルターがそこにはかかっている。僕のイデオロギーや、考えていることが、伝えることの中に必ず反映されるわけですよね。

 そういうときに、間違ったフィルターをかけないようにしなければとは、すごく思います。

 例えば、「この戦争は国家の責任だ」なんて言うのは、簡単じゃないですか。

 でも太平洋戦争でも、日本の国民が熱狂していたのだと。その熱狂の渦の中に、戦争の引き金があった。そういうことをちゃんと理解した上で、戦争を描く映画にも臨まないといけない。そうしないと、「責任者はあなたですよ。だからあなたに全て責任があるんです」と言ってしまう怖さがあるんです。

 どれだけフラットに、きちんと情報や歴史をひもといて伝えられるかには、結構責任があると考えているんです。自分のフィルターを通すわけですから。

 そこから逃げてもいけないと思うし、そういう作品も作り続けていかないといけないと思う。

 常々思うのは、日本の風土として、「検証が下手だよな」ということです。

 近々で言えば、オリンピックのことや、万博のこと。

 どういう形でスタートして、運営をし、幕を引いたか。どれだけの予算と人員を使って、どういうエフェクト(効果)があったのか。そういうことを検証しないまま、どんどん先に行っているように感じます。

 それはイベントだったら、まだいいんだと思います。戦争の引き金は何だったのか、事態がどう推移していったのか。こうしたことは、なかなかちゃんと検証できていないような気がするんですよね。

30年以上前の投書、危機感は今も

 《折に触れて、社会に自らの考えを発信してきた渡辺。1991年、急性骨髄性白血病との闘病中、朝日新聞の投書欄「声」に投稿した。当時進行中の湾岸戦争について「膨大な映像や情報を見聞きして“命のやりとり”という真実はやはり薄れがちです」と評した》

写真・図版
1991年の朝日新聞「声」欄に渡辺謙が寄せた投書

渡辺謙さんの投書は記事の最後に全文掲載しています

 湾岸戦争は、私たちの感覚が…

共有