【社説PLUS】社説を読む、社説がわかる

 戦後80年を迎える今年、社説でもさまざまな角度から戦争を考えました。

 8月23日の朝刊紙面掲載の「現存12天守と空襲」もその一つです。今回の「社説PLUS」では、戦争を生き延びた天守、戦火で焼失した天守が一目でわかる地図や写真もご覧いただける特別版をお届けします。

連載「社説PLUS」

毎日のテーマに何を選び、どう主張し、誰にあてて訴えるのか。論説委員室では平日は毎日、およそ30人で議論し、総意として社説を仕上げています。記事の後半で、この社説ができるまでの議論の過程などをお届けします。

8月23日(土)社説

 太平洋戦争で日本の都市の多くが空襲で焼けた。罹災(りさい)者は数百万人ともいう。戦争を直接体験した人が少なくなるなか、無抵抗の市民を狙った空襲の実相を知る上で、「物」の重みは増している。

 軍需工場や兵学校に使われた建物や防空壕(ごう)など、かつてあった戦跡は失われつつある。それでも、戦前から文化財として街に存在し続けるのが城だ。無言の「証人」を通じ、戦禍の記憶をどう後世に伝えるか、考えてみたい。

城が平和の架け橋に

 国宝の姫路城がある兵庫県姫路市には、陸軍の第10師団や戦闘機の部品を作る工場があった。大空襲があったのは終戦の年の6月22日と7月3~4日の2回。市の記録によると、2回目の空襲で街は炎に包まれ、約170人が犠牲となり、1万戸が焼けた。

 当時16歳だった黒田権大(ごんだい)さん(96)は、祖父母を失い、自らは田んぼに逃げて一命をとりとめた。

 米軍の攻撃は1945年3月の東京大空襲以後、都市部を中心に激しさを増す。兵舎や兵器庫が立ち並ぶ姫路では製作中の飛行機が破壊され、徴用工らも巻き込まれた。

 今、当時を思い起こすきっかけとなっているのが城の存在だ。小高い丘にある城は奇跡的に損傷を免れ、焼け跡を見渡すように立っていた。

 黒田さんは城の壁が当時、黒い網で覆われていたのを覚えている。目立たないように市が擬装を施したのだった。効果は定かではないが、地元の人が必死に守ろうとした城が残ったのは確かだ。

 高校教師を退職後、小中学校で証言を続ける黒田さんは、「黒い城」の記憶とともに、軍の拠点が戦後、城を中心に平和を伝える街となった話をする。復興を見続けてきた天守は、次世代への平和の架け橋ともいえるだろう。

非情な攻撃の背景

 空襲で焼失した天守は七つある。5月14日の名古屋城に続き岡山、和歌山、大垣、水戸など各城の天守が終戦前の約3カ月で失われた。城下町の被災の経過は、米軍の戦略を映し出している。

 名古屋市と岐阜県大垣市には軍需工場があった。城を含め、市街地の多くが焼けた。愛知県犬山市、滋賀県彦根市も空襲を受けたが、城までは炎が至らず、残った。

 攻撃は中小都市にもおよぶ。岡山、和歌山、高知の犠牲者は数百~千人以上にのぼった。高知城は無傷のままで、本丸内の建物がすべて残るのは不思議なほどだ。

1945年、高知空襲で大きな被害を受け、一帯の建物が焼失した高知市南播磨屋町周辺。左上方は高知城

 なぜ民間人まで標的にしたのか。空爆の指揮をとった米軍のカーチス・ルメイ少将のこんな言葉が残る。

 「(日本では)男性、女性、子供を含む全ての国民は、航空機や兵器の製造に携わっている」「家族は家庭で軍需品を生産しており、それは家庭内の製造ラインである」(源田孝著『アーノルド元帥と米陸軍航空軍』)

 非人道的な攻撃を正当化する、身勝手な理屈だ。

現存する天守と太平洋戦争で焼失した天守

 「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三さんが入手した43年の米軍の「焼夷(しょうい)弾リポート」によると、米軍は日本の20都市を選び、建物の配置や人口密度を調べ、焼夷弾の量を見つもっていた。文化財への配慮はなく、いかに効率よく焼き尽くすかが狙いだったことをうかがわせる。

 焼夷弾は木造家屋の屋根を突き破り、屋根裏にとどまって家を燃やすようにつくられたという。戦争とは、そこまで人間を非情にするのか、と思わずにいられない。

過ち繰り返さぬため

 城はもともと軍事のためにつくられた。多くが日本軍に使われ、たとえば南西諸島の防衛拠点、第32軍の司令部壕は首里城の地下にあった。広島城の地下には中国軍管区司令部の作戦室があり、学徒動員の女学生が原爆の一報を送ったことで知られる。

 戦時下で残った12天守も焼けた7天守のあった城跡も、歴史を伝える重要な現場だ。

 国が焦土と化した経緯を学ぶためにも、案内板で戦災や復興の記述を充実させるなど「伝える役割」も重視した継承の場にしてはどうだろう。

 人の記憶は、意識的に刻まなければ薄れてゆく。なぜ日本は焼け野原になるまで戦争を続けたのか。勝算もなく本土決戦を叫び、国民に犠牲を強いた罪は重い。大切なのは、そこに至った歴史的背景を、淡々と示すことだ。

 全国城郭管理者協議会によると、主な約50城の入場者は24年度に計約2080万人と過去7年で最多だった。

 城には人を引きつける力がある。戦国の合戦の舞台から太平の世の権威の象徴、そして大戦の「証人」へ。役割は変わるが、悲惨な歴史を知ることは、同じ過ちを繰り返さないことにつながる。

 赤茶けた石垣の焦げ跡から空襲の猛火を思い、弾痕に機銃掃射の音を想像する。壕の跡からは、逃げ惑う人の姿が浮かぶかもしれない。

 目を閉じ、鎮魂と内省の思いを刻んでみたい。

この社説ができるまで 論説主幹代理・山口進

 7年前、「焼失7天守 都市爆撃の貴重な証し」という社説が載りました。

 1945年5月の名古屋空襲、6月の岡山空襲、7月の和歌山空襲、そして8月の広島への原爆。それぞれの都市にあった城も失われました。城のたつ場所自体が戦災の貴重な証しだとして、戦時の記憶を伝える場となるよう工夫を求める内容でした。

 今回は、戦後80年にあたっ…

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