(9日、第107回全国高校野球選手権大会1回戦 千葉・市立船橋2―6大分・明豊)
選手と同じ、胸に「市立船橋」の文字が刻まれたユニホームを身にまとい、真剣な表情でスコアをつける。
市船橋の宮崎亮汰さん(3年)は、記録員として甲子園の土を踏む。今夏の千葉大会でも21人目のベンチ入りメンバーとして共に戦った。
野球は小学1年生から始めた。2022年の甲子園大会を見て、市船橋への進学を決意した。ポジションは外野手。メンバー入りをめざし、日々練習に励んでいた。
だが高校2年の1月下旬。病が宮崎さんを襲った。朝に目を覚ますと、体が動かない。起き上がろうとしても体に力が入らず倒れてしまった。
秋の県大会の終わりごろから、体調不良が続き12月には胃腸炎にかかっていた。「本当にやばいのかもしれない。これから先、野球はできるのか」
関節痛や頭痛もひどく、病院で血液検査をした。カリウム不足によって、筋力低下や筋肉のけいれん、まひなどが生じる「低カリウム血症」と診断された。
選手として「甲子園に行こう」と意気込んでいた矢先、医師に運動を控えるよう言われた。野球を続けるなら、服薬や点滴を続けないといけない。体に負担がかかるため、2日に1回の通院が必要だという。「もう明日からみんなと野球ができない」。絶望だった。
周りに相談すると、押尾友裕コーチからマネジャーになることを提案された。母にも「チームのために、自分ができる最大限のことをやったらどうか」と言われた。
自分ができることは、チームをサポートすること。田中健人主将には「これまでチームのためにやってきたことは変わらない。宮崎らしく発揮してほしい」と言われた。
一度もAチームに入れたことがないのに必要としてくれる。うれしい気持ちと、選手として諦められない気持ちが葛藤した。約2週間経ち、サポートに回ることを決意した。
時間の管理、練習の準備や片付け、ベンチワークなどのほか、声を張ってチームメートを鼓舞した。もともとBチームにいたからこそ、Bチームの選手がAチームのメンバーに言いづらいことも自分なら言える。チームの架け橋になった。
田中主将は宮崎さんのことを欠かせない存在だといい、「チームのことを一番考えている裏のキャプテン」と話した。
6月初旬ごろ、治療が功を奏し、病気は完治。激しい運動も思い切りできるようになった。「一人ひとりが全力でやってきた。自分も負けないように全力でやりたい」
試合後、宮崎さんは「しっかり最後まで記録をつけることができました」と振り返った。チームの目標だった甲子園1勝はならず、「みんなの調子が出なくて、雰囲気づくりが甘かったんじゃないかと反省しています。申し訳ないです」。涙を流しながら語った。
「(甲子園は)自分が憧れていたところ。(みんなに)ありがとうって感謝です。よくやったって思いでいっぱいです」