知床岬の携帯電話基地局問題で、知床世界自然遺産地域科学委員会(中村太士委員長)は7日の会議で、工事を中断し、オジロワシの繁殖や植生への影響を再調査するよう環境省に要望した。調査が長引けば岬地区の運用開始時期にも影響を与えそうだ。
委員が指摘したのは基地局が遺産地域に及ぼす「顕著で普遍的な価値」への影響だ。知床は国際的に希少なシマフクロウやオオワシ、オジロワシの繁殖地や越冬地で、遺産登録では「これらの種の存続に不可欠な地域」として評価された。
オジロワシは国の天然記念物で絶滅危惧Ⅱ類に分類されており、科学委もオジロワシが繁殖地として利用している知床岬で大規模な工事が進められることを問題視した。
会議では、オジロワシへの影響についての議論は非公開となった。だが、これまでの研究者の指摘で、半島先端部では2組のつがいが繁殖しており、このうち1組のつがいの営巣木3本が岬周辺にあることがわかっている。
指摘を受けた後、工事は中断され、環境省は5月24日に現地調査を実施。太陽光パネル設備の裏山と別の場所の計2本は巣が古く、今年繁殖に使われた痕跡はなかった。もう1本は草木に覆われ、発見できなかった、と報告した。
だが、このつがいが岬周辺の別の場所で巣を作っている可能性がある。またオジロワシは古い巣を再び利用することがあり、今年痕跡がないから繁殖に影響がないとは言えず、科学委は「継続的な調査」を環境省に求めた。
環境省は科学委に建設許可を出すまでの経緯について説明した。
発端は2022年4月の小型観光船の沈没事故で、これを受けて関係省庁や地元自治体、通信事業4社などによる携帯電話エリアの拡大プロジェクトが発足。今年4月の第2回の推進会議を経て、知床岬を含むすべての事業が進み出した。
科学委への報告や説明は昨年度の2回だけ。昨年8月は、環境省が事業の概要や遺産地域の「顕著な普遍的価値に影響する可能性のある大規模な新規工事」には該当しないとの認識を説明。今年2月はプロジェクターで太陽光パネルの概略図やイメージ写真、電源・通信ケーブルを敷設する工事の概要を示した。
知床岬について、環境省は今年3月29日に事業を許可した。知床岬は新規工事などが厳しく規制されているが、環境省は許可した理由について、地元自治体や漁業者の要望などから公益上必要と認められ、景観への影響を軽減する措置がとられていることなどを説明した。
ただ、科学委が太陽光パネル設備(敷地約7千平方メートル)、2キロに及ぶケーブル類の埋設工事、作業路などで使われる総工事面積が2万6千平方メートルに及ぶことを知ったのは第2回の推進会議後だった。
2回の科学委では事業の報告や説明だけで、一度も議論にはなっていなかった。また、この日、半島先端部のニカリウス地区の太陽光パネル設備イメージ図が初めて示され、高さ約10メートルの太陽光パネルが壁のように裏山を隠すように設置されることがわかった。
携帯基地局の整備事業がここまで進んでしまったことに、中村委員長は「議題ではなく、報告事項として聞いてしまった。もっと具体的に聞いて遺産地域の普遍的価値への影響を調べればよかった。私の責任」と語った。(奈良山雅俊)
議論は紛糾、終始かみ合わず
世界自然遺産・知床の携帯電話基地局工事について、環境省は自然公園法で「通常、工作物の新築は許可されないが、公益性の必要性などが認められる場合は特例として許可が行える」と主張し、伊藤信太郎環境相が2023年度の平日最終日の3月29日に駆け込みで許可を出した。
しかし、7日の知床世界自然遺産地域科学委員会では、「特例」の裏付けとなる資料やデータにずさんさが目立ったため、会合は何度も紛糾し、当初の予定時間をオーバーした。
「特例」の根拠は、「地元からの要望」と「他の手段では目的を達成できないこと」、そして「景観への影響を最小限にする措置が講じられている」ことなどを柱にした「公益性」だ。ところが、主な受益者である漁業者の数について、委員が環境省提示の資料のずさんさを指摘した。
環境省は、携帯電話の不感地帯で操業する、小型船(船外機船)の多くが通信手段を携帯電話にのみ依存しており、その数について、「羅臼町548そう」と「斜里町92そう」という実数を示した。ところが、現地事情に詳しい委員が羅臼町が、実際に岬近くの不感地帯で操業するのは「百数十そう」、斜里町が「数そう」と指摘し、「携帯電話のみの船が多いということを過大に示している資料だ」「もう少し実態に合わせた資料を基に議論をする必要がある」などと追及し、「公益」が果たして、工事に伴う特別保護地域の改変を上回るかどうかについて疑問符がついた。
英文の誤解釈を一部撤回
また、環境省は、今回の工事について、規模が小さく「自然環境への影響を低減する措置がとられていることを確認」(伊藤環境相)などと主張。知床の世界自然遺産の登録理由である、独自の生態系と生物多様性からなる「顕著な普遍的価値」を損なわない程度の規模であるとしてきた。
ところが、この主張を後押しするために、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会で定められた世界遺産条約の作業指針(英文)の一部条項を、環境省は独自に解釈していた。
この条項は、「顕著な普遍的価値」に影響を与えうるような「新規工事」について、規模の大小にかかわらず、事前に世界遺産委員会に事務局を通じて報告し、同委から「普遍的価値」が完全に保全されるための適切な支援を受けるべきであることを定めている。
この「新規工事」の箇所について環境省は独自に「大規模な新規工事」との日本語解釈を適用し、今回のソーラーパネル設置工事が「大規模な新規工事」ではなく、報告を要さない程度の小規模であるという主張の後押しに用いていた。
この日、中村委員長が、英語原文の正しい和訳を示した上で、ユネスコやその諮問機関である国際自然保護連合(IUCN)がこうした誤解釈を問題視する可能性に触れて、「英語の部分の解釈はきちんとした方がいい」「これは大規模に当たらない的な論調を持っているような気がする。規模は関係ないですね」と環境省に解釈の是正を要求。環境省は「大規模な新規工事」という解釈を撤回した。
日本政府は、自然公園法を担保措置としているため、この作業指針に従う必要はないとの立場だが、自然公園法の「特例」による許可につなげるための支えとして作業指針の一部を曲解していたとみられる。
環境省は「知床半島の(携帯電話の)不感地域でウニ漁、昆布漁の漁業が行われており、その多くが船外機船。その9割が携帯電話のみで漁業無線がなく、緊急事態が発生したときに複数の連絡手段が確保されていなければ、安全安心が確保されない」「携帯基地局は漁業者等の安全を図る上で必要である」「地元自治体の要望がある」「他の手段で目的が達成できない」「携帯基地局の規模は必要最小限」などとした上で、自然公園法上の「特例」に適合するとしている。(松尾一郎)
知床世界自然遺産地域科学委員会 2004年7月8日、世界自然遺産の登録にあわせて設置。海域と陸域の統合的な管理に必要な科学的データに基づく助言を得るのが目的で、学識経験者や行政機関の13人の委員で構成する。本委員会の下に四つのワーキンググループ(エゾシカ、ヒグマ、海域、適正利用・エコツーリズム)と一つのアドバイザー会議(河川工作物)が置かれている。知床の科学委設置後、ほかの国内4カ所の世界自然遺産地域でも科学委が設置された。