かつて、スポーツをしたいと思ったことも、できると思ったこともなかった。そんな重定知佳選手(41)=林テレンプ所属、北九州市出身=にとって、パリはパラアーチェリーで挑む2度目のパラリンピックの舞台だ。競技、仲間、指導者……。それぞれ偶然の出会いが重なっていまがある。
しげさだ・ちか 1982年、北九州市出身。県立折尾高卒。車いすテニスから、パラアーチェリーに転向し、競技を始めて2年で国内ランキング1位に。
中学生のとき、徐々に歩きづらくなり、よくつまずくようになった。病院に行くと、国の指定難病「HTLV―1 関連脊髄(せきずい)症(HAM)」と診断された。ヒトT細胞白血病ウイルス1型感染に起因し、両足のまひなどを引き起こす。現在は下半身が動かせず、車いすを使って生活している。
アスリートの世界に導いてくれたのは、高校卒業後に入った会社で車いすテニスをしていた同僚だった。様々な障害がある人がのびのびとプレーしているのが印象的だ。やってみると、車いすの操縦が難しいうえ、ラケットで球を捉えることもできない。ただ、練習すれば手応えがあった。
会社勤めを続けながら、プレーヤーとして国内ランキング6位まで上りつめた。でも、そこから先を極めきれない。若手にも押され、約10年後、潮時を感じてやめた。
体を動かす楽しさを知って、「次のスポーツ」を探し始めた。対人競技ではなく、一人で黙々とできるスポーツがいい。近くにアーチェリークラブがあった。的の真ん中に、自分が放った矢が当たると心地よい。テニスをやめて2年後、週2回のペースで練習を始めた。
2016年、岩手で開催された全国大会の30メートル・リカーブ女子の部で優勝。そこでリオパラリンピック出場の上山友裕選手に出会った。雲の上の存在に会い、テンションがあがった。
17年にも全国大会を制したが、世界選手権では緊張して結果を残せなかった。「このままでは勝てない」。競技を極めたいと、15年以上勤めた会社を退職した。
その後、現所属の林テレンプとアスリート契約の話を進め、翌年2月に入社。地元北九州を拠点に週6日、8時間の練習で数百本もの矢を放つ生活が始まった。
末武寛基コーチ(33)の指導を本格的に受け始めたのは、東京パラ大会が予定されていた約1年前、19年4月のことだ。
末武さんは近畿大などでプレーし、世界選手権の出場経験もある。ドバイの世界大会に備えているとき、ふといわれた。
「矢を変えましょう」。カー…