1936年2月の寒い朝。4歳だった鈴木道子(93)は風邪を引き、兄とともに東京・巣鴨の自宅でこたつに足を入れて寝ていた。突然電話のベルが鳴り、父が大急ぎで家を飛び出していったことを、90年近くたった今も覚えている。

 父の鈴木一(はじめ)が聞いたのは、祖父の鈴木貫太郎が危篤という知らせだった。祖父は当時、昭和天皇の侍従長。クーデターを企てる陸軍青年将校らに襲撃されて銃弾4発が命中し、瀕死(ひんし)の重傷を負った。「二・二六事件」である。

二・二六事件で鈴木貫太郎が銃撃された侍従長官邸=1936年2月26日、東京市麴町区三番町(現東京都千代田区)

 第2次世界大戦の終戦から、まもなく80年。戦前や戦中、終戦直後に昭和天皇の側近を務めた人物の記した日記やメモが近年、相次いで公開されています。新たな記録や証言で明らかになった天皇の実像をひもときます。

 貫太郎は一命をとりとめたが、療養が続いた。後任には何人もの名が挙がった後、11月に貫太郎と同じ海軍出身の百武三郎(ひゃくたけさぶろう)に決まった。

 百武が36年から44年まで侍従長在任中に記した日記は遺族から東京大に寄託され、2021年から閲覧可能となった。

 日記によると、百武は36年11月16日夜、大阪滞在中に連絡を受け、夜行列車で急きょ東京に戻った。翌17日、宮内大臣の松平恒雄(まつだいらつねお)から打診された。「すでに天聴に達し(天皇にも知らせ)、ご嘉納(かのう)ご満足(喜び満足)の由」と聞き、「最後のご奉公」と就任を決意。17日と21日に前任者の貫太郎から「陛下は明敏胆勇にあらせられ、また非常に寛大にあらせらるる実に明君なり」と引き継ぎを受けた。

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 貫太郎は45年4月に首相となった。戦局悪化で東条英機(とうじょうひでき)、小磯国昭(こいそくにあき)の両内閣が相次いで行き詰まっていた。戦前の大日本帝国憲法下で、首相は天皇の命令(組閣の大命)によって決めていた。貫太郎は固辞したが、天皇から「この重大な時にあたって、もう他に人はいない。頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」と言われ、覚悟を決めた。

1945年4月に誕生し、8月に終戦を迎えた鈴木内閣。前列中央が鈴木貫太郎首相=首相官邸

 日本はサイパンや硫黄島の戦…

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