報道カメラマンの仕事は現場を記録すること。その「現場」は時に凄惨(せいさん)だ。
1985年の日航機墜落事故。福永友保さん(80)は朝日新聞写真部(現・映像報道部)の一人として、現場を撮った。「覚悟」を持って挑み、若い記者の背中を押したあの夏を振り返る。
高校ではヨット部で国体に出場し、千葉大では写真工学を学んだ。67年に入社し、静岡支局(現・静岡総局)で半年間記者としての仕事を経験したのち、東京本社で働いた。
「5件目」だった日航機墜落事故
翌68年、静岡県の寸又峡温泉の旅館で起きた「金嬉老事件」に派遣されると、宿泊客ら13人を人質に取った立てこもり犯に招き入れられ、2泊をともにしながら内部の様子を撮影した。
札幌五輪やあさま山荘事件……。歴史に残るイベントや事件の多くで現場を踏み、飛行機事故だけでも5件にのぼる。
71年、北海道七飯町での東亜国内航空機墜落事故。77年、クアラルンプールでの日航機墜落事故。81年、作家の向田邦子さんが亡くなった台湾での遠東航空機墜落事故。82年、羽田空港沖での日航機墜落事故。そして5件目となるのが85年、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に日航機が墜落した事故だった。
「あす一番に行きます」
当時は夏季休暇をとり、静岡の下田へ家族と出かけていた。宿の人がニュースを見て「大きい飛行機が落ちたみたい」と話すのを聞いた。一大事と感じ、現場行きを志願。特急列車とタクシーで東京本社にとって返した。
墜落地点である可能性が浮上していた群馬・長野間のぶどう峠は趣味の渓流釣りでよく訪れる場所だった。
「あす一番に行きます」。8月13日早朝、社有機のヘリで羽田空港を発った。
当時の取材態勢などを記録した「日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時」によると、現場上空に着いたのは午前5時10分。
山々を照らす日の出と重なる…