特攻の記憶

 北アルプスの山々を望む長野県安曇野市。農業を営む浅川利夫さん(84)の自宅には、古い日誌や写真、手紙などが残されている。

 いずれも、陸軍パイロットだった叔父・又之さんの遺品だ。

 〈体当(たいあた)りの決心は、既に出来て居る。只(ただ)黙々、実戦に臨んでそれ丈(だけ)の事が出来ればよい〉

 記述の日付は、1944年10月27日。この2日前、日本軍が編成した「神風特別攻撃隊」が、フィリピン・レイテ沖で米艦に突入していた。

 この特攻は29日に国内で大々的に報じられるが、三重県の部隊に所属していた又之さんは、27日に部隊内で知ったとみられる。

 又之さんは6人きょうだいの末っ子として長野県堀金村(現・安曇野市)に生まれた。東京高等蚕糸学校(現・東京農工大)に進むが、41年12月に太平洋戦争が始まり、42年9月に繰り上げ卒業。10月に陸軍に入隊した。

おじの日誌、心境の変化にじむ

 日誌は42年の入隊前後から書き連ねられている。日々の訓練についての記録が主だが、所々にくらしの様子も垣間見える。

 44年10月5日、仲間と一緒に温泉を訪れた際には、〈山中の霊気に接するも亦(また)良し〉〈アルプスの山中に生をうけたる己にとりては幼児を思い出す〉などと書いている。

 まだ飛行学校を出たての新米だった。

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太平洋戦争が戦われていた80年前の1944年秋以降、日本軍は「特別攻撃=特攻」の実行に踏み切りました。主に若者が送り出され、「KAMIKAZE」は自殺攻撃の代名詞となります。特攻の現実とは。記事の末尾では、当時の特攻の様子を映した動画を見られます。

 だが、最初の特攻の知らせ以…

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