南半球のブラジルは、6月ごろから本格的に冬となる。それにもかかわらず、気温は30度ほど。海沿いには水着姿で寝そべったり、ジョギングをしたりする人が目立った。
サンパウロ州南部の港町サントス。1900年代に日本の移民船が最初に到着した場所だ。第2次世界大戦中、6500人の日本人・日系人住民らが、ここから強制退去させられた。
枢軸国出身の移民へ迫害強まる
「道を歩いていたら、突然警察に連行された。はっきりとではないが、今でも覚えている」
サントスに住む当山正雄さん(102)は、そう振り返る。
沖縄の玉城村(現南城市)からブラジルに移住したのは32年、10歳の時だった。現地に先に着いていた両親と合流したが生活は困窮。日々の食事にも事欠き、15歳の時に母親が亡くなった。
39年、ドイツのポーランド侵攻を契機として、世界は大戦に突入。連合国側についたブラジルは、枢軸国である日本やドイツ系移民への差別や迫害を強めた。
事件が起きたのは、43年7月8日。サントス沖合で、ブラジルと米国の商船5隻がドイツの潜水艦に撃沈された。ブラジル政府は、サントスに住む枢軸国の移民がスパイ行為をしたことが原因の一つだと主張。日本とドイツからの移民に対し、24時間以内の退去を命じた。バス会社の修理工場で働いていた当山さんもその一人だった。
まずは警察署、その後50キロ離れたサンパウロ市の移民収容所へ。地べたに寝る劣悪な環境が1週間続いた。食料は少なく友人夫妻が亡くなった。
戦後の47年、4年ぶりにサントスに戻った。退去前まで住んでいた家は他人が占拠。飼っていた複数の豚も消え、全てを失った。
24時間以内の退去を命じられた日系移民。迫害が激化し、日本人どうしが路上で知人とあいさつしただけでも拘束されました。記事後半では、この迫害がいかに「歴史の闇」に埋もれていったかを描きます。
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