Smiley face

 実直で、忠実だった官僚は、80年後に「ヒーロー」になっていた。わかりやすい「美談」の力学に、どう向き合うべきか。

 太平洋戦争末期の1945年5月下旬。沖縄本島に上陸した米軍が、日本軍が司令部を置く首里(現・那覇市)に迫っていた。

 県庁機能を移した洞窟「県庁壕(ごう)」(那覇市繁多川(はんたがわ))の中で、逃げるよう命じられた女性職員が食ってかかる。

 「命なんて、もうお国に捧げています」

 そのほほを、主人公の知事が平手で張り、言った。

 「生きろ、生きてくれ。生きて家に帰るんや」

 2022年に公開された映画、「島守の塔」の一場面だ。

 知事の名は、島田叡(あきら)。当時の知事は官選の内務官僚で、大阪府内政部長だった45年1月、米軍上陸目前の沖縄への赴任を命じられた。

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沖縄戦で命を落とした島田叡知事や県職員を追悼する「島守の塔」。後方には慰霊碑がある=2025年7月18日午後1時30分、沖縄県糸満市、上地一姫撮影

 日本軍は「本土決戦」の準備の時間を稼ぐため、沖縄でできるだけ持久戦を続ける方針だった。赴任した島田は、食糧確保と住民の疎開を県の重要課題とする。自ら台湾へ渡って米を確保する交渉にもあたった。

 県庁壕の近くに住み、10年以上語り部として案内する柴田一郎さん(81)=那覇市=は、島田に特別な思いを抱いてきた。

 島田の働きで、10万、20万もの県民が救われた――。「島田知事は住民の犠牲を増やさないため、絶対だった軍の方針に反対することもあった。そう紹介してきました」

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「県庁壕(ごう)」の語り部、柴田一郎さん=2025年7月14日午前11時21分、那覇市内、棚橋咲月撮影

 だが今、その「島田像」が揺れている。

 45年3月下旬に始まった沖…

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