「日本全体が狂気のような状態になっていたのではないかと考えざるを得ません」

 広島市立大の元学長、藤本黎時さん(93)=広島市=は4月、戦艦大和の沖縄特攻をこう語った。場所は広島県呉市のホテルで、約300人を前にした講演だった。80年前の4月7日、同市で建造された史上最大の戦艦・大和は米軍に撃沈され、乗員の9割を超す3056人が死亡した。そのうちの一人が藤本さんの父・弥作さん(当時44)だった。

 藤本さんがこのことを公の場で話すのは初めてだった。

 1940年、父が海軍から大和の設備などを担当する艤装(ぎそう)員に任命され、以前暮らしていた呉に戻った。大和の存在は機密だった。ただ、通っていた小学校には親が海軍工廠(こうしょう)で働く子も多く、大和が話題になることも。「今度できる大きな船は舷側に水槽があり、魚雷を受けたときに止めることができるんだ」。そう話す子もいた。父に確認すると、「そんな話があるのか」と笑うだけだった。

 41年12月、日米が開戦。大和も就役し、翌年2月には連合艦隊の旗艦となった。父が帰るのは大和が呉に帰港する時だけになった。

 最後に会ったのは45年3月26日。鍋の湯豆腐をつつきながらお酒を飲んでいた父が急に真顔になり、言った。

「そろそろ死んでほしいんじゃないか」

 「そろそろお父さんに死んで…

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