つむぐ 被爆者3564人アンケート 中村明夫さん(93)

中村明夫さん=2025年6月3日午後、大津市、有元愛美子撮影

 広島に落とされた原爆は、1945年末までに約14万人の命を奪った。被爆死した人たちの中には、米兵捕虜も12人いたとされる。

 原爆投下の前日、4人の米兵捕虜に会った少年がいた。大津市の中村明夫さん(93)だ。「背が高くて、目はギロリと鋭かった。だけど、どこかあどけなくて、大学生のお兄さんのようだった」と振り返る。

 アンケートには、20年前に自身がまとめた回想録が添付されていた。回顧録をもとに、中村さんと一緒に記憶をたどった。

【3社合同企画】つむぐ 被爆者3564人アンケート

原爆投下から80年。朝日新聞、中国新聞、長崎新聞の3社は合同でアンケートを行いました。被爆者たちが私たちへ託した言葉をみる。

 中村さんの父重雄さんは、広島市基町(現中区)にあった中国憲兵隊司令部に、45年3月に幹部として赴任。滋賀県にいた明夫さんら家族も五日市町(現広島市佐伯区)に引っ越した。父は仕事が忙しく、ほとんど家に帰ってこなかった。

 7月28日、学校からの帰り道で列車に乗っていると、米軍機が迫ってくるのが見えた。列車は緊急停止し、乗客は飛び降りて避難。その後、1機が近くの山に墜落した。B24爆撃機「タロア号」だった。

 ≪周囲からバンザイ!の声が湧きあがり、人々が歓声を上げながら墜落地点めがけて駆けていくのが見えた。私も負けずに彼らの後を追った≫

 周囲には、機体の破片が散らばっていた。後で聞くと、弟も現場に行っており、捕虜が目隠しをされて連行されるのを見たという。

 「捕虜というのは、どんな人たちなのか。一度見てみたいと思った」

すっと消えた「憎らしい気持ち」

 8月4日、久しぶりに父が帰…

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