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被爆者の「カルテ」を取り出す村田未知子さん=2024年5月10日午前11時58分、東京都文京区湯島2丁目、寺島笑花撮影
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被爆者のトラウマ㊤

 ヒバクシャは、筆舌に尽くしがたいものを描写し、考えられないようなことを考え、核兵器が引き起こす、理解が及ばない痛みや苦しみを我々が理解する一助になっている――。

 ノーベル委員会は、日本被団協の平和賞授賞理由をこう説明した。不条理な死と生、一生消えない後障害への不安……。文字通り、被爆者たちは深く傷つけられ、戦後も多くが原爆特有のトラウマに苦しんだ。

 東京都文京区、一般社団法人「東友会」の事務所には、広島・長崎で被爆した後、東京で暮らした被爆者の手記や診断書などの記録が保管されている。

 あるファイルにとじられた資料に、こんな言葉があった。

 《あの日の惨状に接して、「人間が人間に対してこんなひどいことをする」ということで、人間そのものが信じられなくなった》

 大正15年生まれの吉本寛三さん。1945年当時、都内の大学に通う学生だったが、病気で休学し、郷里の広島で療養していた。

 自宅は、爆心地から2.8キロ。寝ていた時だった。

 《家屋は傾き爆風方向の壁は全部突き抜ける》

 《直後、市の中心部から避難してくる人々が両腕を前に捧げ、近くに来て、重度の火傷(やけど)のため皮膚がすっかりむけて垂れ下がっていることに気付いたが、地獄の幽霊としか思えなかった》

 翌日、爆心地近くを通って親友の家族の安否を尋ねた。家は崩れ、消息は不明。

 《道中真黒こげの死体や、死体の目や鼻からはい出す蛆(うじ)に思わず目をそむける》

 隣町に住む、当時6、7歳だったおいは、顔のやけどと、全身打撲による重傷だった。

 うわごとに「B(爆撃機B29)のやつが」と叫び、苦しんで転げ回り、被爆から4日後に亡くなった。遺体を収めた小さな棺を大八車に載せて近くの丘に運び、穴を掘ってまきを組んで荼毘(だび)に付した。

 《まわりに同じ火煙が何十となく立ち上っているのを見たときは暗たんとした気持におそわれた》

 《その屍臭は今でこそ忘れたが、戦後も相当永い間ふと記憶によみがえることが続いた》

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