戦前や戦中、終戦直後に昭和天皇の側近を務めた人物の記した日記やメモから歴史をひもとく企画。連載第3回は、太平洋戦争開戦が決まるまでの政治過程を検証した歴史学者が、天皇の開戦決意について考察しました。

 静岡県立大教授の森山優(あつし)(62)は、日本歴史学会発行の「日本歴史」誌編集部から依頼され、同誌2023年8月号に「『百武三郎(ひゃくたけさぶろう)日記』に見る昭和天皇の対米開戦決意」との一文を寄せた。

百武三郎の1941年12月7、8日の日記。「対米英宣戦布告」と書かれている=2021年11月22日、東京都文京区

 森山は歴史学者として、日米開戦にいたる政治過程を研究。1941年の開戦前後の数年間に注目し、政府や軍の幹部が何月何日にどこで何をし、どんな発言をしていたかを史料に基づき実証的に研究してきた。2012年には「日本はなぜ開戦に踏み切ったか」を著している。

 戦前から戦中に昭和天皇の侍従長を務めた百武三郎の日記は、子孫により19年に東京大に寄託され、21年から閲覧可能となった。戦前、統治権の総攬者(そうらんしゃ)で軍の大元帥という絶対的な立場にあった天皇が、1941年の開戦決定にどんな役割を果たしたか。森山は百武の日記で昭和天皇の言動を改めてたどった。

  • 昭和天皇は「覚悟あらせられる様子」 太平洋戦争直前、側近が日記
  • 昭和天皇「顔が紅潮ご興奮」 開戦議論後 百武侍従長日記の主な記述

 従来、天皇は開戦直前まで戦争回避を願っていたという印象が強かった。41年9月6日、政府と軍の幹部が国策を決めた御前会議では、祖父の明治天皇が日露戦争開戦時に戦争回避を願って詠んだ歌「四方(よも)の海」を朗読した。10月9日には皇族軍人の伏見宮(ふしみのみや)が米国に対する開戦やむなしとする「主戦論」を唱えたのに対して議論となり、百武の日記に「やや紅潮ご昂奮(こうふん)あらせらるる様拝す」と記された。

 しかし百武の日記を精査した森山が実感したのは、天皇が41年10月中旬以降、これまでの資料で想定されたよりも、開戦に前のめりだったということだ。10月13日の日記によると、天皇と会った宮内大臣の松平恒雄(まつだいらつねお)が「すでに覚悟あらせられるご様子」と述べ、天皇の政務を補佐する内大臣の木戸幸一も「ときどきご先行をお引き止め申し上ぐる」と語っていた。

 開戦回避をめざして米国との…

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