恵泉女学園大学名誉教授の内海愛子氏=2024年4月1日、都内、牧野愛博撮影

 連合国による軍事裁判で有罪判決を受け、BC級戦犯となった朝鮮出身者はどのような人たちだったのか。植民地から来た人たちがなぜ日本の戦争責任を問われることになったのか。「朝鮮人BC級戦犯の記録」(岩波現代文庫)などの著作がある内海愛子・恵泉女学園大名誉教授と、マニラ軍事法廷を研究してきたフィリピン大学のリカルド・ホセ教授に聞いた。

【連載】忘れられた朝鮮人戦犯

来年は終戦80年。戦時中の東南アジアには、朝鮮半島出身の日本軍高官がいました。多くの朝鮮人が捕虜収容所に監視員として配属されました。戦後、軍事法廷で有罪となった彼らはどんな人たちだったのか。記者が足跡をたどりました。

内海愛子・恵泉女学園大名誉教授

 ――朝鮮出身のBC級戦犯の問題を研究するきっかけは何だったのですか。

 1975年秋、インドネシアのバンドン郊外で、独立戦争に参加して亡くなった旧日本軍兵士3人を独立英雄として顕彰する式典がありました。梁川七星という日本名の朝鮮人の遺族だけが、家族の誰も出席しませんでした。日本がジャワに開設した捕虜収容所の監視員でした。なぜ、彼の遺族は参加しないのか。共に独立戦争を戦ったインドネシア人らを探して話を聞きました。

 日本に戻り、朝鮮人元BC級戦犯の集まりを訪ね、梁川七星の本名が梁七星(ヤンチルソン)だと知りました。梁七星のように独立軍に参加した朝鮮人軍属はバンドンだけでも10人近くいますが、ゲリラ闘争の中でいつどこで死んだのかわかっていません。

 日本からタイやジャワなどに送り出された朝鮮出身の監視員3016人のうち、129人が戦犯になりました。彼らは鉄道や道路、飛行場などの建設に動員された捕虜を監視しました。

 ――なぜ、彼らは日本軍の軍属になったのでしょうか。

 理由は様々です。(元BC級…

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