太平洋戦争末期の沖縄では、軍と住民が入り乱れる地上戦が起きた。20万人余りが犠牲となる中で、10代の子どもも学徒として戦闘に参加させられた。沖縄県で副知事を務めた比嘉幹郎氏(94)もその一人。対中国を念頭に、自衛隊の機能強化が進む沖縄の現状に、強い危機感を示す。
――地上戦の経験は。
14歳だった。沖縄本島北部にある、県立第三中学の2年生のときだ。「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」と名付けられた学徒隊に動員された。軍国少年だったから命ぜられるまま従った。
国民学校には日本軍の本部が置かれた。そこで手投げ弾の投げ方や、銃の撃ち方を簡単に習い、すぐに戦地へ駆り出された。何組かにわかれ、現在の名護市や本部(もとぶ)町あたりを日本兵と一緒に行動した。
1945年4月、米軍が本島に上陸した。空も海も、米軍が完全に掌握している。私たちは軽機関銃は持たされていたが、使い物にならなかった。一発でも撃てば、逆に無数に弾が打ち込まれる。照明弾がどんどん飛び、夜も昼のように明るい。戦えるような状態じゃなく、壕(ごう)に隠れていた。何日かして気が付いたら、日本兵たちがそこからいなくなっていた。引き揚げていたんだよ。
上級生と4人くらいで壕に置き去りにされてしまって、外には米軍。もうこれは自決しかないと手投げ弾に手を伸ばした。周りに止められて、なんとか生き延びた。
戦後80年の今年、戦前生まれの現職国会議員は約1%になりました。戦争を経験した政治家たちが次世代に伝えたいこととは何でしょうか。その証言を聞きます。
- 【連載3回目はこちら】8歳で目撃したヒロシマ 戦後80年に抱く危機感とは 亀井静香氏
米兵と遭遇、気絶して助かった命
――自決は自然の考えだったのか。
当時はそう教え込まれていた。その後に避難した野戦病院でも、米軍が来て危ないからと、日本兵は撤退していた。残された動けない負傷兵らには自決用の手投げ弾が配られていた。
私は戦線を移動するという日本兵たちに道案内を頼まれた。山の中を彼らの200メートルほど先を歩いていたら、待ち伏せた米兵に機関銃でババババッと撃ちこまれた。
後ろにいた人たちはたくさん…