いまから四半世紀前、瀬戸内海の離島、香川県・豊島(てしま)は「ごみの島」と呼ばれていた。国内最大級の有害産業廃棄物の不法投棄事件が明るみに出て久しかった頃だ。入社したばかりの記者も取材で訪れた。
ところが四国に久しぶりに赴任すると、豊島は「学びの島」「アートの島」と呼ばれていた。どんな経緯があったのか。
昨年11月、高松港から乗り込んだ高速船は外国人観光客で、すし詰め状態だった。目当ては、天井から光と風が入り、寝そべりながらアートと自然を堪能できる豊島美術館。
記者が向かったのは、そこから西に約7キロの海岸だ。
そこは今もただならぬ光景が広がっていた。甲子園球場の2.5倍の広さ。瀬戸内海国立公園内でありながら、緑はまばら。
一画には、島民が「悪事の数々を手がけた敵の本丸」と呼んでいた木造2階建てが変わらず立っていた。一帯は、かつて産廃が投棄されていた現場だ。
風雨にさらされ、傷みの激しい建物の入り口には「豊島のこころ資料館」との看板がかかる。案内してくれた住民団体「廃棄物対策豊島住民会議」の安岐正三さん(73)の声に力がこもった。
「ここは都会から有害産廃を運び込み、野焼きしたり埋め立てたりして豊島を『毒の島』にした業者の現場事務所跡です。負の遺産として子孫に伝えるため、あえて残しているのです」
豊島の名前が、国内外にとど…