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近現代史研究家の辻田真佐憲さん=2024年10月9日午後7時11分、東京都千代田区、関口佳代子撮影
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 太平洋戦争終盤の1944年、日本軍の「神風特別攻撃隊」がフィリピンのレイテ沖で米艦隊に体当たり作戦を始めた。以降、軍は特別攻撃(特攻)を拡大し、新聞やラジオは特攻隊員たちをたたえ、やがて「一億特攻」は国家のスローガンとなっていく。

 なぜ日本は、国を挙げて「特攻」に突き進んだのか。近現代史研究家の辻田真佐憲さんは、キーワードに「感情の動員」を挙げる。

 ――なぜ日本軍は特攻を始めたのでしょうか。

 44年後半、日本軍は物量ではもう米国に勝てないとわかっていました。けれども軍人は、どんな状況でも「勝てる案」を出さなきゃいけない。物量が無いなら、精神力で相手を恐怖させるしかない。頭がおかしいように見えても、当時の軍隊にとっては「合理的」な結論とも言えるのです。

 ――特攻の戦果は、大々的に報道されました。

「美しい物語」批判しにくく

 特攻を「宣伝」に使おうという意図は、当初からありました。若い人が命を捧げて、自分から志願して国のために特攻した、とする物語は、プロパガンダとして使いやすい。

 だから、特攻の発表は特別扱いされました。当時の新聞を見ると、戦果に比べて記事が大きい。隊員の写真も多く使われました。基地から直接出撃するから、りりしい姿の写真が撮れる。日本兵の死者の多くが餓死でしたが、餓死はプロパガンダになりません。

 個人にフォーカスした発表も特徴です。顔写真、個人名や遺書が公開され、読む人は感情移入してしまう。

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  • 特攻に突き進んだ日本軍 「一撃講和」に固執、若者6千人が戦死

 ――44年11月1日付の朝日新聞を見ると、大本営発表は「空母3隻を撃沈」とあります。

 「大戦果」ですよね。このこ…

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