- 連載「私に何ができるか 戦後80年 ~おばあちゃんの孫として~」の初回はこちら
広島で被爆した祖母・野津喜代子は、倒壊した自宅に生後3カ月だった長女の美津子ちゃんを残して避難したことを生涯悔やんでいた。
無数のガラスの破片を背中に受け、頭にも大きなけがを負った祖母は、山口県徳山市(現・周南市)の親戚宅に身を寄せて療養生活を送った。
長女を失った祖父は終戦翌年に軍を離れて鉄工所の経営を始め、私の父を含む4人の子どもを新たにもうけた。やがて経営が立ちゆかなくなると、1960年ごろに商船学校時代の友人を頼って家族と上京。中国からの引き揚げ船やタンカーの船長をし、70年代初めに神奈川県厚木市に自宅を建て、落ち着いた。
私は小学校に入るまで大阪で育ち、厚木の祖父母宅に寄るのは盆と正月くらい。夜8時に床に入る祖父は、私をひざの上に乗せたり何かを買ってくれたりということもなく、近寄りがたい存在で、その祖父にいつもエプロン姿で寄り添っていたのが祖母だった。口数の少ない人だった。
幼い頃、何度か一緒にお風呂に入った。「100数えるまで上がっちゃだめ」と言われたことは覚えているが、原爆の悲惨さを残すケロイドの背中を私は覚えていない。
「お父さんにはもう1人、お姉さんがいたんだよ」
小学4年生だった1994年…