安全啓発センターに展示された圧力隔壁の残骸を見学する、JR宝塚線脱線事故や中華航空機事故などの遺族たち=2006年9月11日、東京都大田区

 日本航空(JAL)のジャンボ機墜落事故から1年も経たない1986年5月23日、200人以上の遺族でつくる「8・12連絡会」の一部に、日航から一通の「お知らせ」が届いた。

 その中の一文に、事務局長の美谷島邦子さん(78)は言葉を失った。

 「現金を除くその他のご遺品は、(中略)関係省庁と協議の上しかるべく礼を尽くして6月中にご焼却し、(中略)納骨堂内に納められるように致します」

日本航空が事故翌年の5月に遺族にあてた文書。6月中に配布予定の「お知らせ」として、遺品を「焼却」すると書かれていた=8・12連絡会の会報「おすたか」から

 来月にも遺品が燃やされる――。遺族の意向を確認しないまま、決定事項であるかのように突きつけられた「通告」だった。

 「遺品は命の次に大切なもの。これがJALの姿勢なのかと思うと悲しかった」

 事故では乗員乗客520人が犠牲となった。墜落現場となった群馬県の御巣鷹の尾根からはカバンや時計、子供の物と思われるぬいぐるみなど数千点の遺品が見つかり、持ち主が分かったものは遺族に届けられた。

 群馬や東京、大阪で展示会を開き、持ち主を探したが、損傷が激しかったこともあり、2千点超が「身元不明」のままだった。

ほのめかし続けた「焼却論」

 美谷島さんら8・12連絡会が遺族を対象に行った緊急アンケートでは、大半が当面の焼却に反対した。「5月下旬、主人の手帳が出てきた。公開もしないで焼却なんてとんでもない」「あの時は涙で遺品を見ることも出来なかった。もう一度見たい」という意見が続々と寄せられた。

 さらに遺品に加え、事故機の…

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