Smiley face
写真・図版
沖縄師範学校の学徒たちを慰霊する「健児の塔」の下にあるガマでは、沖縄市から来た兄弟が手を合わせていた。祖父の兄が犠牲になり、毎年慰霊の日に家族で訪れているという=2025年6月23日午前8時20分、沖縄県糸満市、内海日和撮影
  • 写真・図版

 「軍事による平和」の論理が勢いを増し、沖縄戦の記憶が揺るがされる。戦後80年の「慰霊の日」の23日、人々はそれぞれの思いで手を合わせた。

 国籍や軍人、民間人の区別なく24万人余りの犠牲者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」(糸満市摩文仁(まぶに))。八重瀬町の前森誠光さん(86)は、弟たちの名前を指でなぞった。

 1945年、一家は米軍の上陸を知って沖縄本島北部に避難した。ガマ(自然洞窟)に逃げ込んだが、「ここは使う」と日本兵に追い出された。4歳と2歳の弟2人は衰弱し、立て続けに息絶えた。ぬかるむ水たまりを掘って埋葬した。

 近くの穴でも、同じように力尽きた無数の子どもの死体を目にした。弟たちの遺骨は見つかっていない。

「軍がいるから住民は守られると思えない」

 沖縄戦では、日本軍は崩壊し…

共有