【未来への伝言】
戦後80年の今年、改めて語り継ぎたいこと、今だから心に刻みたいことを聞きました。
料理愛好家・平野レミさんの父親の威馬雄(いまお)さんは、横浜市西区の野毛山地区で育った。父親が米国人で威馬雄さんもその外見から、幼少時から差別されることが多かったという。終戦後の激動期、千葉に移っていた威馬雄さんは米兵と日本人女性との間に生まれた子どもたちを放っておけず、レミさんら家族が暮らす自宅に連れてきた。「料理を好きになった原点」とも言うレミさんに話を聞いた。
――多くの子どもたちが松戸(千葉県)の自宅にいたそうですね。
沖縄や北海道、青森など、あちこちから来ていましたね。父が受け入れていたんですよ。肌の色が白かったり黒かったり、いろいろだった。最大で10人ぐらいだったかしら。私は一緒にご飯を食べたりお風呂に入ったりしていました。
米兵は帰国してしまい、子どもは父親の顔も知らないし会えない。うちのお父さんは、心からかわいそうだと思って見過ごせなかったんでしょう。お金持ちでもなかったのにね。
神経痛で寝込んでいたのに、そういう子のために沖縄まで行ったこともあったのよ。何人もの就職先を世話したし、日本には居づらいからアメリカへ行くという人にお金を渡したこともあった。
お母さんとは「よく頑張るねぇ」と話していました。お父さんが死んだとき、遺体の顔を両手で包んで、「偉かったね」って言ってあげました。
――そこまでしたのは、お父さん自身の体験からですか。
いじめられ、差別された過去
見た目が日本人らしくないか…