80年前の5月4日、沖縄の特攻作戦で戦死した若者が残した日記類がある。奮い立つ心、戸惑い、母への思い。18歳が出撃直前まで書きつづった言葉の束が、戦争の愚かさ、無意味さを訴えかけてくる。
相花(あいはな)信夫は1926年、宮城県三本木町(現・大崎市)で、馬商を営む一家の次男に生まれた。4歳で生みの母が病死。父は再婚した。
8歳上の兄は継母に屈折した思いを抱き、幼い信夫に「母ちゃんと呼ぶな」と言い含めたという。兄は後々、そのことを悔やむことになる。
信夫は尋常高等小学校を卒業後、少年飛行兵に合格し、宇都宮少年飛行学校(栃木県)に入校した。44年6月、両親にあてた手紙で飛行訓練について紹介している。
「一歩操作を誤れば墜落あるのみ……然(しか)し絶対に死にませんから御安心下さい。敵機を少なくとも十機落さぬ中(うち)は死にませんよ」
日本陸軍が海軍に続いて特別攻撃隊を編成するのは、この年の10月。重さ250キロの爆弾を装着した戦闘機で艦船に体当たりし、自らの命とともに敵を沈める――戦況悪化で追い詰められた末の、狂気の戦法だった。
最後の帰省、日記に記した思い
信夫は、鹿児島県の知覧基地から出撃する特攻隊の第77振武隊に配属された。米軍の主力が沖縄・慶良間列島に上陸した45年3月26日、沖縄特攻作戦が始まる。
信夫の日記には、自らを鼓舞する文章が続く。「血湧き肉躍るの感あり/男子の本懐/良い哉 やるべし/我幸運児なり」
特攻が決まると、しばしの休暇帰省を許された。雪が残る三本木で親類や母校をあいさつに回り、同級会に出た。5日間の滞在最後の日、父親が信夫の懐に継母の毛髪をそっと差し入れた。兄の言いつけを守ってきた信夫は、この帰省でも「お母さん」と呼べずじまいだったと、記した。
故郷を後にし、各地を転々と…