大きな被害を受けた被災地に残るか、それとも他の地域で生活を立て直すか。災害大国・日本では、過去にも多くの被災者が、その判断を迫られました。地域コミュニティーや人のつながりを保ち続けるには、何が大切なのか。新潟県中越地震の経験から考えます。
「集落を生かす」震災直後、旧山古志村の判断
被災して長期避難をした後、元の居住地に戻るか、戻らないか。アンケートでは「条件次第で判断したい」が最多だった。仕事、家や土地、医療・介護、人とのつながり……。大切に思うものは人それぞれで、戻るか否かを簡単に決めることは難しい。
そんな選択を迫られた住民に対して、行政のきめ細かい対応は不可欠だ。2004年の新潟県中越地震では発災直後から、自治体みずから地域コミュニティーを生かし、残そうとした試みがあった。
最大震度7を観測した中越地震は、死者68人、重軽傷者4805人、住宅の損壊12万2667棟に上り、旧山古志村や旧川口町(いずれも現長岡市)、小千谷市などの中山間地で大きな被害が出た。なかでも旧山古志村は道路の寸断で孤立し、自衛隊のヘリなどで2日間をかけて住民約2200人全員が隣接する長岡市へ避難した。
複数の避難所に住民がバラバラに移動せざるを得ない状況だったが、村は発災直後から、地域の特徴を踏まえた避難の方法を検討していた。当時の村職員・五十嵐豊さん(現長岡市職員)は「とにかく集落ごとに住民を集めるのが村の方針だった」と振り返る。
旧山古志村は、毎冬2メートル以上の雪が積もる豪雪地帯だ。「かつては冬場になると一つ一つの集落が孤立した。毎年、災害が起きているようなものだった」と五十嵐さんは話す。その分、集落単位での住民のつながりが強い。「雪掘り」と呼ばれる屋根の雪下ろしや神社の清掃、農作業など、住民が協力して行わなければならないことも多い。避難中もつながりを維持することが大切だという認識が、村にはあった。
発災から10日ほど経った頃…