飛鳥宮跡で新たに見つかった建物跡=奈良県明日香村、筋野健太撮影

 飛鳥時代の歴代天皇の宮殿が築かれた奈良県明日香村の飛鳥宮跡(国史跡)で、昨秋確認された宮内最大の大型建物跡(7世紀後半)の南隣から、ほぼ同規模とみられる総柱(そうばしら)構造の建物跡が見つかった。県立橿原考古学研究所が18日発表した。宮殿の中枢部「内郭」の外側に、想定外の大規模建物群があったことがわかり、専門家は「飛鳥宮の宮殿構造の理解を塗り替える重要な成果」と話す。

3棟が計画的に配置

 出土したのは、方形の掘っ立て柱の抜き取り穴(1辺約1・7メートル、深さ約1・4メートル)が計35個。床下全体に柱を配し、重さに耐える総柱構造の建物跡とみられる。昨年11月に確認された四方にひさしを持つ飛鳥宮最大の建物跡の約2・4メートル南側に位置し、東西は同じ規模の約35・4メートル、南北は12メートル以上となる可能性が高い。平城宮内裏などでしか確認されていない柱と柱の間隔が東西の両端だけやや広い特異な構造も共通していた。

 過去の調査では総柱建物跡の約10メートル南側から別の掘っ立て柱建物跡も見つかっている。いずれも柱筋や方位がそろい、3棟は計画的に配置されたらしい。

見つかった建物跡と飛鳥浄御原宮の主要建物の配置図

「超一級」の特別なエリア

 総柱建物は倉庫か楼閣とされることが多く、飛鳥宮の主要施設での確認は初めて。古代の宮殿で大型建物と総柱建物が南北に並ぶ例は、奈良時代後半の平城宮跡で称徳天皇(在位764~770)が暮らした「西宮」の正殿がある。その原型が飛鳥宮で出現していた可能性もある。

 今回は天武天皇(同673~686)と持統天皇(同690~697)が暮らした「飛鳥浄御原宮」の時期の建物群とみられるが、現地は宮の内郭から北西に約40メートル外側にあたる。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「規模と構造から見て、『超一級』の建物群が営まれた特別なエリアで、これまでの宮殿構造の理解を塗り替える。天武天皇の死後、持統天皇が日常生活を送った内裏だったのでは」と話す。

 現場はすでに埋め戻され、現地説明会はない。

なぞの大型建物群、その用途は

 7世紀後半、日本列島を取り巻く東アジア情勢が激変するなか、律令国家づくりを進めた天武・持統両天皇が政治を行った飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)跡で、想定外の大規模な総柱建物跡が現れた。宮殿中枢部の「内郭」の外側に、格の高い大型建物群が計画的に造営されたことが判明した。この建物群は何だったのか。「日本国」誕生直前の飛鳥に、また新たな謎が加わった。

 飛鳥浄御原宮は、壬申の乱を制した天武天皇が飛鳥に入ってから、694年に持統天皇が藤原宮に遷(うつ)るまでの22年間使われた。これまでは、南北197メートル、東西152~158メートルの内郭が天皇の私的な空間の「内裏(だいり)」に相当し、内郭から東南に飛び出した「東南郭(エビノコ郭)」と呼ばれる区画が、天皇の出御する「大極殿(だいごくでん)」が築かれた公的な空間と考えるのが通説だった。

 ところが、今回は内郭の外側…

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